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2008年 (2) ⇒ 活動状況 2012年(1)
■2008.10.26 一人ブレインストーミング
福島の作品を搬出する。
今日も東北自動車道を往復。北に向かうにつれて、搬入の時より車道沿いの緑の色づきが増してきている。本格的な紅葉はもうしばらく後だろう。周囲の景色を眺め、次のプランのことを考えながらのんびりと車を走らせる。
途中、ブレインストーミングするように断片的なアイデアが次々に浮かんでくる。今後の制作やアートに関すること以外でも、フッと不連続に思念やイメージが湧いてくる。いや、降りてくるといったほうがいいかな。それらを忘れないようにする為、パーキングエリアにたびたび入り、メモやをとったりスケッチをする。油断するとスルリと記憶から抜けてしまうから。
時々、こういうことが起こる。少しひんやりとした風が頭の働きに良かったのかもしれない。それだけでなく、体を適度に動かしながら移動し視界が変化していること(歩行と同じよう)。スピーカーから流れる音楽との相性。たまたま心理的にリラックスできていたこと。そして適度なプレッシャーもある状態。こんないくつかの条件が組み合わさった時に調子がでる。
もっとも、それらの出てきたアイデア、後で大半はたいして展開できないのに気づき、がっくりくることもよくあるのだが…。まあ、それもよし。
搬出作業の方は、セッティング時の十分の一くらいの時間と労力で無事終了する。
■2008.10.20 (前回からの続き)
福島での発表と雑感 (2)
「私のはスカスカですよ。」
作品のセッティング中、ある人に「どんな作品になるの?」と尋ねられ、そう答えた。既に周囲に展示されていた他の作品が、時間と手をかけて作り込まれているものが多く、それに無意識に呼応し、冗談めかして答えた感もあった。私の設置場所のすぐそばに戸谷成雄の重々しい作品があったせいもあるかな。
しかし、実際、視覚的にはスカスカなのだ。仮設のインスタレーションという理由からだけでなく、素材の物質性に対するアプローチ(特に、素材の加工作業的な部分における手のかけ方)が、このシリーズの作品においては、あえて抑制されているのだ。
この作品の場合は、物体よりも空間性、そしてその存立のあり方が前面に出てくる。「スカスカな状態のゆらぎ感」みたいなものが重要なのである。この感覚は、長年、都市のフィルドワークをキーコンセプトにしてきて、次第に感得されてきたものと言ってもよいだろう。大袈裟に言ってしまえば、人間や文明そのもののあり方に繋がるような…。
造形論的な観点から言えば、「彫刻」ではない。
「彫刻」の基本条件の一つに「自立性」というものがある。この作品の場合は自立させていない。壁にもたれかかり、天井から吊られ、一つでも接合点が外されると崩れてしまう。カーヴィングやモデリングなど加工の有無に関わらず、これは「彫刻」には成り得ない。私は今まで、制作において立体的なものを造っても、一度も「彫刻」を目指したことはない。別に「彫刻」を忌避している訳ではないが。(ちなみに、私自身はフォーマリストではもちろんない。ただ、形式やその純粋性ついて原理的に捉える志向性は、逆説的に持っている。)
そういえば、昔、戸谷さんが今のようにメジャーな評価を受けるようになる前、新橋のガード下で、彼の熱き彫刻論を酒の肴にいろいろ語り合ったことを思い出した。彼はあの当時から真摯に「彫刻」を考えていたな。
まあ、一般的にはインスタレーションとしか呼びようがない。私流に言えばインスタラクションだ。
先の「自立させない」こととともに、空間性に身体(アクション)が介在することによって初めてたち現れてくる作品を、ここでは目指している。
もっとも、呼び方にこだわる気はあまりない。私は評論家ではないし。
初対面で美術プロパーでない人から素朴なことを尋ねられた時、便宜的に答えられる名称があると便利と思うだけだし、尋ねた方もそれでなんとなく納得する雰囲気が生まれる。その事自体に、お互い少々違和感を感じても、コミュニケーションの第一歩としては、それも時にはありだろうと思う。自分の内に向けた制作への意思においてスカスカでなければね。パフォーマンス
"Transition"
協力:吉田精一作品周辺の会場の様子
インスタラクション
壁のキャンバスには、パフォーマンスで行ったドローイングが。
■2008.10.16-18
福島での発表と雑感 (1)
「福島現代美術ビエンナーレ2008」(以下、ビエンナーレ)の作品セッティングと、オープン初日のパフォーマンス公演のため、この3日間で福島−東京間を二往復。
少々疲れたものの、天気に恵まれたこともあり、秋のさわやかな空気の中の東北自動車道のドライブはさして苦にならなかった。
このビエンナーレは、福島大学の渡邊晃一准教授を中心に、学生や院生諸氏を主な実行委員として、かの地における現代美術の支援と地域文化の活性化を目的に開催されている。今年で3回目。会場の文化センターの古さは否めないものの、作品は絵画、彫刻、写真、映像、インスタレーションなどの様々な力作が並んだ。また、その他の関連企画もあり、なかなか見応えがあるものとなっている。
想像するに、地域社会の中でこのような試みを持続させていくことは、様々な思惑違いが生じたり、足の引っ張り合いがあったりと並大抵の苦労ではあるまい。ざっと見渡した限りでは、学生・院生諸氏、ボランティアスタッフの方々の献身的な協力が印象的だった。
16日は、昼過ぎから休憩をはさまず、7時間程かけてセッティングを八割方済ませる。一人で、手順を考えながら部材を組み立てていくのにかなり慎重を要した。
夜になって、三島町のパフォーマンス・フェスの関係者の方々と街で飲む。アートによる地域活性化のアイデアの話で盛り上がる。酔いのせいもあり、けっこう直感的で面白いキーワードが頻出。多くの地域系のアートプロジェクトが行われる昨今、このビエンナーレも含め、こういう話は日本全国で行われているだろうな。もちろん、現代美術系の関係者やそれに興味がある一部の方々の間だけでだが。
やはり、どこも共通して抱える問題点があるが、重要なのは、その地域の潜在力を発見し掘り起こすアイデアとパワー、そしてアートそのものがどのようなベクトルでそこに切り結んでいくかのコンセプトだ。やや乱立気味のアートプロジェクトが、ありふれたお祭りや地域おこしのお手軽な手段に堕さないためにも、地域の方々の地道な活動とともに、そんなことが必要だろうとあらためて感じた。
その晩は、市内の旅館に泊まる。翌17日は、セッティングの残りを続け、翌日のパフォーマンスの仕立ても考慮しながらひとまず完了。一度、東京に戻る。
18日午後のパフォーマンスは、展示エリアを利用した20分弱の行為。今回のビエンナーレのテーマ "YAMA"と、私自身がここのところ継続している"Simultaneousu Positioning"シリーズのコンセプトを交錯させようとした試み。私のようなタイプのパフォーマンスを初めてご覧になった方の中には、少々戸惑った様子も感じられたが、若い方の中には刺激になったという感想も。
行為後の状態をそのまま展示しても良かったが、管理の都合や周囲の状況を踏まえ、少し整えてからセッティングをリメイクする。
夜は、懇親パーティーに参加し楽しく歓談。その後、深夜の東北道をかっ飛ばし、日が変わる頃の帰宅となる。(10.20に続く)
■2008.10.13
展覧会のお知らせです。
「福島現代美術ビエンナーレ2008」
10月18日(土)〜26日(日) 福島県文化センター 3Fギャラリー+福島市市街地各所
10:00-18:00(最終日15:00まで) 入場無料
企画・主催 福島現代美術展実行委員会、国立大学法人福島大学 ⇒ ビエンナーレ案内 Web Site
YAMA 〜山、森、精霊、堆積、炭坑〜
森に住んでいた水の時代
ヤマを掘りあてた火の時代
精霊たちと共にあった木の時代
山を崩しはじめた金の時代
たどり着いたか土の時代に
ヤマとわれらとのクロニクル
(案内文より)
私は、近年継続して発表している"Simultaneous Positioning"シリーズの作品展示と、パフォーマンス公演をします。(18日 14:00から 展示と同じ場所を予定。)
どうぞ、足をお運び下さい。
■2008.10.11 秋の気配から
一昨日の9日、倉庫から制作用の各種素材を運び出す。
写真は、その折、那須の山々を見はるかす夕焼け空を撮ったもの。雲は秋の気配を漂わせる。
空を見上げながら、何故か、5日に亡くなった緒形拳のことが頭をよぎった。津川雅彦が看取った時のことを語っていて、そのことが不思議と印象に残っていた。臨終の間際、歌舞伎役者のように虚空を睨みつけながら、静かに息を引き取ったと。
最期に何が見えていたのだろうか。何を見ようとしていたのだろうか。
私などが言うまでもないが、彼は他に替え難い存在感をかもし出せる役者だった。小学校の頃、初めてNHKの大河ドラマを見続けたのが、彼が主演した「太閤記」だった。翌年の「源義経」の弁慶役も印象深い。脚本(物語)の面白さとか、ある断片的なワンシーンなどではなく、「役者そのものの存在感」を子ども心に刻み付ける力をすでに彼は持っていたのだろう。
その後は、大学時代に映画で見た「鬼畜」「復讐するは我にあり」「北斎漫画」、さらに「楢山節考」などの凄みのある演技の記憶が強い。ここ数日、追悼番組でいくつか最近の出演ドラマを見たが、激しさを発散させることから、なるほど、内省的な渋い味を出すようになっていたのだとあらためて感じた。しかし、それもかつての凄みがあればこその穏やかさであることは間違いあるまい。
自分の制作活動に直接関係ないことをなぜここに記すかというと、緒形拳は高校の先輩なのだ。面識はない。たまたまそれだけのことなのだが、妙に気になる存在だったのだ。
そして、今夏、その高校の寮に三十数年ぶりに顔を出した折り(7.30-8.1の欄)に、彼と近い70歳前後の同窓の先輩方と語らう時間が少しあった。おおざっぱに言うと、戦前生まれで、団塊世代のもう一回り上、60年安保世代周辺の方々だ。ずいぶんと面白い話を聞くことができた。新鮮だった。そうか、この世代の方々の経験や生き方もなかなか魅力的(結構、破天荒な生き方をした人が多い)だと感じた。もちろん、近しい世代だからといって、一人一人の体験や考え方を十把一絡げにすることはできない。しかし、そのとき受けたその時代や世代の生き方の感触や印象は、緒形拳だって全く無関係だったのではなかったろうと自分勝手に推測する。
歳のとり方を思う。
彼は、内面に沸々と激しいものを抱えながら、“好好爺”然とした雰囲気を絶妙に演技できるようになっていった。(笠 智衆とは違う味だ。) 生身の彼はどうだったのだろう? 最期に見たものは激しいものだったのか? あるいは、秋の空のように澄んださわやかなものだったのか? それとも、全く別の世界だったのだろうか?
■2008.9.30 「つながるみどり」プレゼン(2)
雨がそぼ降る中、8月30日の打ち合わせに続いて2回目の打ち合わせに出向く。
今回の打ち合わせで、おおよその骨子が確定。ワークショップとパフォーマンスの2本立てで、11月24日の午後、実施することに。街を周回しながら、何カ所かで連続的にワークショップ、最後に公園でパフォーマンス、という2時間程のイベントになるだろう。
「緑化意識を高める」という啓発的な目的があるイベントなので、もちろんそこから外れるわけにはいかない。とはいえ、私としても、プロのイベント企画のプロデューサーのような、目的・内容・方法・効果など総合的に踏まえた気の利いた提案とか、スペクタクルなエンターテインメントができるわけでもない。(元々、そんなことを求められているのではないことは百も承知だが。)
まあ、前回(8.30)記したように、アートとしての刺激性を少しでも加味できればと構想を練っている。
晩秋という季節柄、街中には緑は少なくなっているだろう。そのあたりもご心配される向きもあったようなので、緑化をイメージするのに具体的な緑を説明的に用いなくても、人の想像力で十分おぎなえること、逆に、アートこそそれが可能なのだ、などど少々口幅ったいことを地元の事務局の方々に申し上げた。話は少しそれるが、以下をご紹介したい。
‥‥食べ、生きるということは、体を地球の分子の大循環にさらして、環境に参加することに他なりません。地球全体にある元素の総量は、実は、それほど変わりません。ある時は海に、ある時は風に、ある時は生物になって、元素はぐるぐるを回っています。‥‥私たちを形づくっている分子は、自分のものであって、自分のものではない。一瞬は留まっているけれど、私たちの中を通り抜け、次の瞬間には別のところへ流れていきます。‥(福岡伸一「生命と食」より)
分子生物学者としての観察と事実認識をふまえた、平易な文章(抜粋)なのだが、彼の他の著作を読んでも恐ろしく文章がうまいし、詩的感受性が背後に息づいているのがわかる。
「体をさらして、環境に参加する。」
シンプルだが、意味内容は深い。上記の文をなぜ挙げたかと言うと、この認識、私が以前、自分の活動についてのコメントによく書いていたことを、ふと連想させてくれたからだ。(⇒文例1)(⇒文例2)
私は、上記の「分子」を、「眼差し」という非物質的な気流のようなものに置き換え、アート活動してきたのだとあらためて思った。
話を戻す。
「眼差し」がどのように街中の各所に注がれ、新たな「気づき」が創発されるか。これが今回のイベントの目的とは別の側面、つまりアートとして成立しうる一つの側面を形成することになるだろう。特にワークショップにおいて。
この後、約2ヶ月弱の期間で、具体的な準備作業に取りかかっていくことになる。
■2008.9.24 17年ぶりの偶然の再会
ローマ在の高原直也氏の個展(東京・神宮前の色彩美術館)に行く。1991年にローマでの展覧会でご一緒して以来、久しぶりにお会いする。
たまたま同じ時間帯に、やはり同じ展覧会でお世話になったローマのギャラリー、Sala1(サラ・ウーノ)のディレクター、マリー・アンジェラさんが来て、びっくり。丁度、国際交流基金から招聘されて日本に滞在中で、ここに立ち寄ったとのこと。17年ぶりの偶然の再会である。この後、同じくお世話になった元ルナミ画廊の並河恵美子さんも一緒になリ、当時のことや、今の日本の状況などについての話に花が咲く。
さらに、この世界は狭いものだなと感じたのは、今年、Sala1で中国の黄鋭(ファン・ルイ)の大きな展覧会も行った話を聞いた時。彼とも北京で世話になったり、一緒にパフォーマンスを何回か一緒に行ったことがある。
全くつながりがないように思える人間同士が、些細なことで(まあ、アートの世界でのことだが)繋がっていることにあらためて気づく。友達の友達を5人もたどれば世界中の人とどこかでつながる、という話があるが、さもありなん、と感じたあっという間の2時間の再会だった。
■2008.9.20
台風一過の元、都内のT&Sギャラリーで行われていた展示の作品搬出。私が非常勤で関わっている教育機関での、学生・職員向けの展覧会だった。
ここしばらく続けている家具部材を用いたインスタレーション。壁面に平面作品も組み合わせたのが今回の特徴。この部分は絵画性が多少考慮されている。手前の壊れた椅子に座っていた仮想の人物のポジションを想定し、その影のドローイング(シミのような形の)が正面に施されている。
この平面上には、観者の姿や上方に吊るされたものの影も投影される。つまり、静的ではなく、周囲の状況を取り込んだ、出来事が生じつつある平面となる。これも私流のインスタラクションの一つの方法である。
この作品には、その他、テーブルに空けられた穴から、気象衛星映像が見られ、“ある変化の予兆”が忍び寄る気配が仕組まれている。Simulutaneous Positioning 2008
W2500 × H4300 × D1500
家具部材、DVD映像、メジャー、振り子時計、その他(蝉の抜け殻・羽など)
⇒ 作品ページへ
■2008.9.12-16 「ホスピタリティ」のリレーションシップ
今年の4月にカメルーンで世話になった現地の友人夫婦が、家に泊まりに来た。あいにく、自分の体調がすぐれない時で、あまり良いタイミングではなかったが、少々無理をし、ふだん倉庫代わりにしている部屋を急遽片づけ、開放する。
遠来の客人に対しホスピタリティを発揮することは、自分自身が今まで世界各地でそれを受け、助けられた経験から、ある意味、お互い様というか、当然の責務という感じがある。いやいやながらでもなく、事務的でもなく、過剰なサービスでもなく、自分の生活のペースを大きく崩すことなくできたら理想的なのだろう。なかなか難しいが。
今まで様々なホームステイ先で、ずいぶん良い経験、つまり無理のない、さりげないホスピタリティを受けてきた記憶がある。嫌な思いをした経験はそれほどない。まあ、けっこう自分は恵まれていたのかもしれない。それに無頓着なところもあるからな。もちろん、お国柄、文化、パーソナリティによってそのスタイルは千差万別。狭いキッチンのテーブルの下の石の床に寝せてもらったり、ホコリっぽい階段の踊り場で寝たこともある。古城のような部屋やゴージャスな食事でもてなされたこともあったっけ。しかし、要は、その物理的な心地よさとかゴージャスさとは少し違う部分がミソなのだろう。
いざ、自分自身がそのミソを心得ていて、良いホスピタリティを発揮できるのかといえば、むろんそんな自信はない。が、今回は妻の協力もあり、彼らは5日間の滞在を終え、満足してくれ(多分?)、次の滞在先へと移っていった。
その次の滞在先とは私の友人。実は、彼らはある宗教の信者で、それを知った私は、たまたま同じ信者の知人夫妻がいたので紹介したのだ。両者から詳しく話を聞くと、信者同士はたとえ初対面でも、ウェルカムなのだそうだ。どんな民族、言葉の違いがあろうとも、必ず助け合う教えというか、ネットワークがあるらしい。互いにコンタクトさえ取れれば、「兄弟・姉妹」を喜んで受け入れる。世界中どこでも(イスラム圏でも、北朝鮮でも!)ホテルに泊まる必要などないとのこと。ホストファミリーが、鍵をかけずに出かけ、留守番を頼んでも全く心配もない。恐るべし、信仰の力。そしてネットワークの力。
私のような旅好き人間は、「へぇー、それだったら世界中で無銭旅行ができるな」などと、つい下世話なことを考えてしまう。しかし、振り返ってみれば、自分の場合だって、ほとんどのケースがアーティスト同士という、無形の信頼感や共感を元に、互いを認識し、その関係の元でホスピタリティを享受してきたことに思い至る。初対面でも、互いが互いの作品を見たり、アートに関わっているという事実が、言語・思想・宗教・民族・国家を超えて、互いにリスペクトし合える心理的土壌を形づくる。
信仰が結びつける力とは異なるが、このようなアートの緩やかに結びあう力も、ホスピタリティの温床になる。そして、次々とリレーションシップが広がっていくことが心地よい。
■2008.9.6-7
Aizu Art College (AAC) - パフォーマンスフェスティバル'08が、通算25回目の記念フェスティバルとして、9月4日から7日まで福島県三島町で美術展示もあわせ開催された。海外からも15名のアーティストが参加。私は5年ぶりに後半の2日間に顔を出し、パフォーマンスを行ってきた。
パフォーマンス関係者の方はご存知の方が多いだろうが、これは1984年に福島県檜枝岐村で行われたフェスティバルが母体となって継続されてきたもの。その後、同県内の田島、喜多方と場所がうつり、現在の三島での開催になって12年。美術・ダンス・舞踏・音楽・演劇・映像等の多ジャンルを横断しながら、一種日本的ともいえるパフォーマンスの一断面を体現してきた草分けのフェスティバルである。美術系のアーティストはさほど多くない傾向だ。私は、檜枝岐の頃の時代、これを知ってはいたが、横目で見ながら自分のアートとしてのパフォーマンスや制作をしていた。その後、田島の頃から断続的に関わるようになった。
当初の中心人物の及川廣信氏が、当時を述懐して記した『初期のパフォーマンスフェスティバル - オルタナティブを夢見る遊牧民』から一部抜粋してみよう。わざとらしい演技は捨てられ、すべてがありのままの身体と行為であり、周りとの関係のなかに存在していた。身体は、あらゆる芸術の共通基盤として問われ、同時にからだの歴史的痕跡の上に意味と価値が浮游するのを感じたのだった。
そこには歴史と自然と文化の交叉があらためて問われるべく現前していた。そして美術家、音楽家、舞踊家などのそれぞれの身体が、知覚の共通と差異の上に向かい合っていた。
われわれは、つねに構造を変換する可能性としての空白と細部に関心を持ちつづけ、オルタナティブを夢見る〈遊牧民〉であった。‥当時の「パフォーマンス」という新しいキー概念を巡ってのワクワク感が漂っている。(このあたりに関連することについて、7月8日のこの欄でも少し触れた。)特に、多ジャンルのアーティストたちの様々な実験的チャレンジが行われたことが記録を見ても伝わってくる。
しかし、その後、身体観そのもの、それをめぐる背景も様変わりした。バーチャルでフラットな世界が広がりを見せるなか、単に「ありのまま」(自然性)の拠点としての身体を対峙するだけではたち行かなくなった。オルタナティブという立ち位置も相対的な枠組みが変化した。残念ながら、今や同じようなかたちの「夢見る〈遊牧民〉」ではいられまい。
必然的に、このフェス自体もだいぶ変わってきた。私の見方からいえば、個々のアーティストの深化は一部感じられるが、残念ながら、かつてのような実験精神あふれる活況は全体的に影を潜めた。「場所性」に依存し過ぎたり、コラボレーションという形式に惰性的に安住しているのではないかと感じることもよくある。
もっとも、これは先に書いた、一種日本的な特性を濃厚に体現しているともいえる。海外のフェスティバルと照らし合わせても、奇態といえるほどの時空がこの山深い地に形成される。ある意味、これを今まで継続してきたということ、世代が変化してもあまり変わらないということは、抜き差しならない日本人の心性みたいなものを想定してみる時、いろいろと考えさせる材料を提供してくれそうだ。
また、身体そのものに潜在する可能性が失われたわけではない。新しい時代の身体観に基づく新しいアイデアや方法もまた出てくるかもしれない。
参加者の一人としては、フェスティバルとしてもう少し異なる仕掛けや、運営の方法論を工夫することが必要だと感じる。ネグリ=ハートのマルチチュード論などの研究も、今後フェスティバルを展開する中で模索してみてもよいのではないだろうか。
それともう一つ。アーカイブの充実化。少しずつ作業が進められているようだが、ここで行われた膨大な資料にできるだけ迅速にアクセスできるようにするべきだろう。かつて拙文で書いたが、日本のパフォーマンス・シーンの最大の弱点は歴史性への無自覚さだと思う。中には「その場・その時」の一期一会で、敢えて記録など残す気などないアーティストもいるかもしれない。しかし、表現者の立場であっても、ある程度歳をとり経験を積んだら、知らず知らずに行っていること、行われたことが、実は大きな時間の流れの中でどのような位置づけにあるのかということを、自己確認を含めリサーチする必要性があると思う。そのためにも、まずきちんとしたアーカイブの形成が望まれる。地道で慎重な編集作業などは困難を極めるだろうが…。
さて、最後に私の今回のパフォーマンスについて。(下写真 行為の写真は未入手)
準備のあわただしさや悪天候の関係もあったが、私には珍しく屋内ホールの照明の元で行った。15分ほどのシンプルな行為。床に円形に巻かれたロープを自分の顔に巻きつけていく。次第にロープの下から顕われてれてきたものとは‥‥?
地元の方々から、久しぶりに来た私のパフォーマンスに期待していて、様々な感想をいただいたり、海外のアーティストが、"Your Performance is the Best !" などと言ってくれたことが嬉しかった。素朴だがこんな関係が形成されるだけでも、はるばる来て良かったと思うし、この場を用意してくれたスタッフ・関係者の方々に感謝申し上げたい。
AAC チラシ パフォーマンス(公演前のセッティング)
椅子、黒ロープなど部分
■2008.8.30 「つながるみどり」プレゼン
秋に予定している、「つながるみどり」プロジェクトのプレゼンテーションをする。
これは、私の地元、東京・板橋の常盤台におけるまちづくりプロジェクト。ここの地区は「東京のしゃれた街並みづくり推進条例」に基づく歴史的・文化的な特色を継承する「街並み景観重点地区」に指定されているとのこと。その地元のNPO法人から「つながるみどり つながるひとびと」をキーワードに良好な景観の保全、住環境の向上、などを目的としたパフォーマンスやワークショップを依頼された。自己紹介を兼ね、地元の有志の方々に対し、そのざっくりとしたアイデアのプレゼン。
具体的内容の決定は、まだこれから。アートとしての自由さと意外性をどう発揮していくか、今後、約3ヶ月の時間内で煮詰めていく必要がある。
■2008.7.8 (7.6からの続き)
私にとっての80年代(特に前半期)は、本格的に活動を展開し始めた時期。先の「絵画・彫刻への回帰」現象そのものを否定はしない。ニューペインティング現象も席巻したし、関心がなかった訳でも無論ない。しかし、自分にとっては「形式」に収斂していくよりも、表現の現場というべきものをいかに拡張していくか心を砕いた時期だった。(その辺りの簡単な経緯はこちらを参照) それはもちろん、先行する6〜70年代における、ジャンルの解体とかメディアの拡張といったムーブメントとは性質が異なるものだ。
あえて、当時の私のキーワードを対比的にあげるとすれば、「インスタレーションとパフォーマンスへの展開」となろうか。どちらもカタカナ言葉で、今、その移入〜受容〜変遷の過程を振り返ると、この用語を併記するのに少々こそばゆい感じはするが…。しかし、これらにはそれなりの目映さがあった。
パレルゴン以外の神田周辺の諸画廊(真木画廊/田村(新田村)画廊/駒井画廊/ときわ画廊/秋山画廊/等々‥)にも、活動のバックボーン形成においていろいろお世話になった。無論、これは私だけのことではなく、他の関係者も同様だろう。時代の検証のためには、まず、当時の記録がきちんと日の目をみる必要がある。まだそれにはほとんど手がつけられていないし、今後の大きな課題だ。例えば、私は2003年にパフォーマンス・アートを検証する企画を行ったのだが、その時、残念ながら画廊などで個人的に行われていたパフォーマンスの記録資料をほとんど集めることができなかった。公正な機関を中心として、当時の関係者の方々はもちろん、若い意欲的な研究者の積極的な介在を望みたいが、現時点ではなかなか困難だろう。
話が少し逸れた。
私自身は、仮に、歴史化される当事者の立場になったとしても、作家として、現在進行形の自分の活動を続けていくほかはないと思う。当たり前のことだが‥。その上で、自身のこと、状況体験をノスタルジーに浸ることなく、修正主義的になることもなく、できるだけきちんと語る(言語化する)ように努めたい。それが、実は容易ではないということも承知しているつもりだが、このウェブサイト上の作品記録や文献資料なども、その中のささやかな一貫としてご覧いただければ幸いだ。
作家は、一人一人異なる実感を同時代の状況に抱く。自身の実感が、他を含めた膨大な主観の束のほんの僅かな一つに過ぎないとしても、それはそれでよい。
また、次のこのような機会を期待したい。
■2008.7.6
京橋で行われたシンポジウムに顔を出す。
テーマは、80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術 ー 画廊パレルゴンの活動を焦点として ー。
この画廊の主宰だった藤井雅実氏が中心となって発行した「現代美術の最前線」という記録集を材料として、当時の報告を交え討議が行われた。
主催の「現場」研究会の趣旨文(北沢憲昭氏 記)によると、80年代美術は、絵画・彫刻への回帰の時代という位置づけがなされがちだとか。これは驚いた。私の現状認識が甘かったのかもしれない。情報としてだけ美術史を学ぶ若い人たちが、あの時代をこのような認識としてとらえているとはまるで知らなかった。いや、若い人だけではない。このような単線的な思考でとらえると都合の良い勢力があるということらしい。
会場には、私にとってずいぶん懐かしい顔ぶれの面々がいた。うーん、確かに四半世紀という時間は長い。自分の活動の時間軸だけの実感では、さほど遠い昔ではないではないのだが。むろん、だいぶ変化した人となりだけのことではない。先のような歴史認識(大げさだが)が、知らず知らずのうちに一人歩きしているのだとすれば、その時代に少しでも関わった者としては心穏やかにはいられないというものだ。
討議の展開は、評論家の方々が言説をリードし過ぎて、ちょっとストレスが溜まった。そこで出てきた発言も、表面的にはけっこう醒めていたというか…。まあ、役回りからして仕方ないか。曰く、「不幸な時代だった」「語られないまま魂がさまよっている」「作家と評論の競合関係が失効していた」等々。そう、それらの理由(ここでは詳述しないが)に、もっともなところがあることは確か。しかし、その背後に、古傷が疼く、自分は今はもう関係ないけど、といった口にこそ出さないが自嘲的なニュアンスを少し感じたのは私だけではあるまい。とはいえ、全体的には時間不足は否めないながらも、誠実な討議が交わされた3時間だった。
基本的に、私自身はこのシンポジウムの趣旨と必要性に対しては賛同する。このようなテーマで、80年代、それも東京・神田界隈の状況を振り返るなどということは今までなかった。そして、曲りなりにも自分も少しは関わった時代状況が、今、歴史化(史として検証)される対象になっているということをあらためて再認識した。シンポジウムの場では、時間のせいもあり発言をしなかったが(二次会は別)、この辺りについて、いろいろ言うべきことはあると感じた。「歴史は科学か物語か」という観点でいえば、美術の歴史というものは、どちらかと言えば物語が優位を占めてしまうものだろう。しかし、その物語があまりにも単線的に偏向してしまうとすれば、北沢氏も言うように、それを看過することはできまい。(7.8に続く)
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