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2011年 (3) ⇒ 活動状況 2012年(1)
今回、この会場(ギャラリー)の床に重要な役回りを与えてみようと考えた。
手前の、あえて間を空けた場でささやかなアクション(出来事)を発生させ、何の変哲もない木の床に、目に見えない何かを暗示させる。そのような構想を固めたのは秋以降のことだった。突き当たりの壁に、私自身が多重に構成・配置された写真(事前に同じアングルで撮影)を現実の空間の中で連続的なイリュージョンを伴って見えるように貼り、周囲にはテーブル(上にいくつかのオブジェを配置)、傾いた椅子、鏡を設置し、天上から天秤のようなささやかなオブジェ(風の揺らぎで動く)を吊り下げた。
写真6点 2mx3m(画廊内でのアクション) A2サイズ3点(福島県の南相馬+飯舘+二本松でのアクション)
A3サイズ1点(裏表に床+被災地の地平線) テーブルおよびその部材 廃材 鏡 ステンレス球 その他
左:上下にひっくり返されて重ねられたテーブル(間に鏡) 被災地の廃材 土・灰 右:被災地の石 椅子
ステンレス球 定規 アクションでドローングされた紙 鏡 その他 ステンレスボウル 縮小された椅子模型 枯葉 その他 メジャー(重みで折れ曲がる直前まで延ばされバランスを取っている) バネ
入り口手前の壁に、テーブルの天板とともに取りつけた写真は、津波で人家が全てさらわれてしまった南相馬の海沿いの場所と、放射線の線量値が高く住人が自主的に避難し人の気配が全くなくなった飯舘村の墓地。この写真でも、荒涼とした現場で撮影された自分のアクションポーズが多重に構成・配置されている。このようなテーマで今発表することが、かなり際どいのはわかっていた。これに対し、声高に何か強いメッセージ性を打ち出したり、何事もなかったかのようにやり過ごしたりする選択肢は考えられなかった。心の奥に澱のようにたまった重い気分とじっくり対話をしなければならなかったから、そのような、ある意味わかりやすくて安直な態度は取れなかったのだ。
「接触点」をどう見出すか悩んでいる中、ある突破口が開いたのは、幾度か被災各地を廻り、そこで感じた奇妙な感覚やインスピレーションが、かつて20年くらい前まで頻繁にフィールドワークしていた東京湾の埋立地と少し近いのに気づいた時。被災地は決定的にネガティブな場であるものの、このような場から自分がどのような次の兆候や希望が見出せるのかを、埋立て地でアプローチしていたように(美術的な方法において)捉えられるのではないかと気づいた。
被災地も埋立て地も、私たちが暮らしている場所も、地表で生きる人間にとって同じ地続きの場。そしてギャラリーも、そこに人が立ち、歩き、そしてどこかへつながる場。同じ地表の場、つまり地球の大地の延長としてとらえられる。このギャラリーの床も被災地の地表(地面)と合わせ鏡のように重ねられると感じたのだ。
非常にシンプルにいえば、以上のようなことが今回の個展の肝だったということだ。
会期中3回行われたアクションはそれぞれ異なったものだったが、なぜか思いがけず似たような展開になっていった感があった。多分、テーマとしての床の存在がそれなりに影響したのだろうと思う。結果的にアクションのたびに、インスタレーションの空間は微妙に変化していくことになっていった。
12/12 Short action _ mapping 写真: 左)杉本尚隆 中)薄井崇友 右)薄井崇友 12/17 Short action _ tracing 写真:芝田文乃 12/23 Short action _ sticking 写真:芝田文乃
もしかすると、今まで私の作品をご覧になっていた方には、手法的にそれほど大きな変化を感じられなかったかもしれない。しかし、私自身にとってはかなり悩み、苦労を重ねてなんとかやり遂げた印象深い個展であった。
■2011.12.10
個展の紹介コメント(画廊サイトに載せたもの)を、下にはり付けておきます。
「インスタラクション」とは造語である。インスタレーション(installation)でも、インストラクション(instruction)でもない。 意味は、 "install - actionモ=「行為を据える」といったところか。 今回は、基本的にはインスタレーションとしての造形作品であるが、会期中に3回ほどショートアクションを予定している。
3.11以降、私たちがSF的設定だと思っていた世界を現実として生きるはめになっても、その中ですら、かつて非日常であった日常を淡々と生きている。この国で、豊かで平和で退屈な消費社会の中の「おわりなき日常」が喧伝されていたのが夢のようだ。これから当分(少なくとも私がこの世に存在している間は)、この地では「日常」と「非日常」がまだら模様で混在していくのだろう。放射線量値が高いホットスポットが思いがけない飛び地に紛れ込んでいるように。
■2011.12.6
Various Skills
個展の予告です。
12月12日から、東京・外苑前のトキ・アートスペースにて、画廊企画 "Various Skills"シリーズの6回目(最終回)として開催されます。
基本的にインスタレーション(造形作品)ですが、以下の3日間は夕方18:00より「ショート・アクション」も予定しています。3回とも内容は異なります。(なお、展示はアクションの都度、変化することがあります。)どうぞ、お気軽にお立ち寄りください。
2011企画シリーズ "Various Skills" Vol.6
独自の領域への考察を、固定した手法に囚われずに制作する、1年を通して計6人の個展丸山 常生 展 MARUYAMA Tokio Exhibiton
‐ install-action(インスタラクション)という方法 ‐
2011年 12月12日(月)〜12月25日(日)
11:30〜19:00(水曜日休廊) 初日12日15:00〜 最終日 〜17:00まで
12月12日(月)17:30- オープニングレセプション
12月12日(月)18:00- 作家よるShort Action ‐“mapping”
12月17日(土)18:00- 作家よるShort Action ‐“tracing”
12月23日(祝)18:00- 作家よるShort Action ‐“sticking” (全て入場無料)
トキ・アートスペース
150-0001 東京都渋谷区神宮前3-42-5 サイオンビル1F
tel & fax 03-3479-0332
⇒ 丸山紹介ページ
■2011.11.29
彼此往来
先頃、とある場所で展示したチャリティ用の小品につけたタイトル。彼岸花(曼珠沙華)をモチーフにした写真作品を紹介させていただきます。
彼此往来 2011
200mm×200mm
インクジェットプリント
彼岸花。土手などで群生して咲いている姿はよく見かけるが、我が家の狭い庭では、ふと気づくと地面から茎を延ばし、いつの間にやらポツンと咲いている姿が怪しく視界に入る。9月末頃、切り花にして生けていたものを見てたら、枯れゆく姿もなかなか魅力的だった。いくつか撮影し作品に仕立ててみた。
日本では、やゝ不吉な感じのイメージ(死人花・地獄花・幽霊花‥などの異名)がまとわりつくが、「天上の花」という意味もあるらしい。
思いつきの造語による命名。今年の様々な出来事が自身の心理に及ぼした影響からかも‥。エディション10枚。まだ6枚ほど手元にあります。ご希望の方はメールでご相談を。
風をよむ
「トロールの森2011」と、遊工房アートスペースにおけるコラボレーション展示が23日に終了。
最終日のこの日、様々な関連イベントや3回目のアートツアーが行われた。恒例の私のショート・アクション・Part3では、再び傘を登場させ、池の水を用いてみた。
池の水をすくい取り、口に含み、逆さに吊るした傘に下から吹きかけるという行為。上方の枯葉が傘の内側に舞い落ちる。ちょっと健康にはリスキーだったかな。(セシウムや鳥インフルエンザは大丈夫?!)時の推移と、大気や水の循環が、Part3のさり気ない裏テーマ。3回を振り返って、2〜3分ほどのショート・アクションは、簡単そうで実はそうでもないとあらためて感じた。『最良のパフォーマンスは5分でいい』という台詞があるが、「アクション俳句」ともいえる時間と要素の制約の中での今回の連続的行為は、アートツアーの中のプレゼンから派生したものだったが、自分自身にとっても新鮮な刺激になった。
他に枯葉も登場…
さて、「トロールの森2011」の展示作品『風をよむ』について、11月3日本欄の「作品の概要」以外、紹介していなかったので、アートツアーで一般の方に語った内容に沿って簡単に加えておきたい。
設置は2カ所。両方の場所は、ワイヤーロープを渡した軸線上に700mほど隔てて位置する。そこに2mx2mのターポリンのバナーをパイプにつけて「より戻し」で吊るす。バナーの両面には画像が印刷されている。(下記のキャプションを参照)
2つの時と場所(計4つ)が、風で回転することによって、過去←→未来が現在(つまりその場にいるという体験そのもの)を挟んで次々に往来するように感じてほしいのがねらいである。
(左)善福寺公園における設置 2mx2m
2011.3.11 午後3:00の気象衛星画像 ステンレス球 傘
(右)桃四小学校における設置 2mx2m
2011.10.4 正午0:00の気象衛星画像(ワークショップが行われた日)
(左)善福寺公園における設置(上左の片面)
小学生の瞳の拡大写真+軸線に沿った方向の善福寺池の風景を中心に合成
(右)桃四小学校における設置(上右の片面)
ワークショップ「視界を切りぬく」で小学生が撮った写真各種+善福寺池設置場所の上空写真を中心に合成
言うまでもなく、公園側の地球画像の3.11−午後3:00とは、東日本大震災後の津波がまさしく日本列島を襲おうとしている時。「風」とは、この場でからだに受ける風そのものであるとともに(もちろん放射能を運んだ風も)、この時を挟み人々の心の中に生じた変化、そのざわめきもメタファーとして含む。つまり、ワークショップで関わった子どもたちの未来に向けた眼差しと、この地に関わる人々(観客の方々も)の現在及び過去に関わる眼差しと風を、軸線の方位と絡めて掛け合わせ、交錯させるという仕掛け。(ボブ・ディランの歌詞をちょっと思い出すかな?)
展示期間中に行った3回のショート・アクションは、過去と現在の狭間でたゆたう、か細げな現在そのもののリアリティを扱ってみた。
翌24日は、朝から公園、小学校、遊工房のコラボレーションの3カ所の撤去・搬出。
この地域は駐車規制が厳しく、車も都合の良い時間帯に止めておけない。かなり不自由な段取りを強いられたが、なんとか事故もなく無事終了。コラボレーションの展示で使った枯葉を作家3人でリヤカーで再び公園に戻し、掃除も含め全て終わったのが夜8:00過ぎ。疲労困憊。なお、小学校の作品は、学校(図工室)へプレゼントする予定。本来、2枚一組なのでバラバラにはしたくないところだが、こちらの作品のありかは、やはり小学校が相応しいだろう。
会期中お越しになりお会いできなかった方、どうもありがとうございました。
■2011.11.13
アートツアー&トーク
この日は「トロールの森2011」の中日。再び、参加作家による自作の紹介を兼ねたアートツアー。
ちょっと暑いくらいだったが、気持ちのよいさわやかな秋の陽気の中、前回と同じ趣向で1時間半ほど善福寺池を周回。スタート前は集合した方々が少なく身内だけ? とちょっと心配したが、次第に増え、私の時(6番目くらい)は30名ほどに。
今回も私はショート・アクションを交えたプレゼン。もちろん前回と同じ場所だが、アクションは異なる。前回は傘を使った2分ほどだったが、今回は4分ほどの観客参加型のもの。全員で周囲を見渡し、枯葉が舞い散る瞬間を発見したら「ハイ!」と声を出してもらう。静寂の間をはさみ、丁度いい案配のタイミングで次々に声があがる。声が上がる度に一枚一枚の葉の落下が知覚される。そして僅かに漂う風の気配も。後半は落下したばかりの葉を拾ってアクション。ささやかな生命の終焉と循環をこの場に設置した作品のテーマと絡み合わせて表現してみた。
レンズ、地球儀など使用
また、この日は17:00からコラボレーション「Silence」のアーティストトークも遊工房で行われた。今回のコラボ作品のテーマのことから、発想の展開のことなど、司会の椛田有理さんの質問を通して3人で順番に語る。通訳を交えてなので50分程の時間はあっという間に経過。もうちょっと話したいこともあったが、三者の共通した思いとそれぞれの考え、コラボレーションという方法(プロセス)から生まれた個人作品とは異なる「膨らみ」は感じてもらえたと思う。(以下は、会場の様子)
会期は、両作品とも23日まで。ぜひ足をお運びください。
遮光された部屋(一カ所、四角く外光が入る開口部)、一面に敷き詰められた落葉、電球、その他
■2011.11.3
オープニング
野外アート展「トロールの森2011」のオープニング。 ⇒ 「トロールの森2011」サイト
前夜、小学校に設置した作品にちょっとトラブルが生じた連絡が入り、午前中はその調整作業。その後、隣の遊工房アートスペースでのコラボレーション展示「Silence」の、外光が入る薄暗い状況もあらためて確認。想定通りの空間に、かなり近づいたことにけっこう満足。
野外展示の方では、午後から主催者の村田弘子さんの挨拶から始まり、観客の方々とともにアートツアーがスタート。(下写真左)
参加作家が自分の展示場所で簡単なプレゼンをしながら公園を一周するという趣向。作家は皆さんまじめに語りでプレゼン。私はといえば、単に説明的に話してもどうかと思い、5分ほどの持ち時間のうち半分ほどをショート・アクションに当てた。コメントはごく簡単に済ませる。誰にも事前にこのことは話していなかったが、進行役のジェイミ(Jaime Humphreys)は、何も口を挟まないという形でさりげなくフォローしてくれた。さすが感度がいい。
村田弘子さん(右)による挨拶 遊工房前での、村田達彦さん(左)による挨拶
今回の作品の概要は、以下の欄に記すが、公園内と小学校の二カ所に設置したのがミソ。
そして、3.11の以降の現実から目を背けないように、何となく観客に向けてこびるようなことはできるだけ意識から排除しようとした。今の状況で、この場所でサイトスペシフィックな作品をつくる時、自分に何が出来るかを真摯に考え、ここで関わった人々の眼差し、未来と現実を結ぶ子供達の眼差しをこの作品の中に構造化したつもりである。
作品の下の空間で、福島や小学校の方向を傘で指し示しながらのショートアクション。
作品の概要:タイトル:「風をよむ」 (Reading the Wind)
(キャプションスタンドの説明より)
善福寺公園と桃四小学校を結ぶ軸線を想定し、公園内の樹間上の空間と小学校西門の二カ所で作品を設置する。
その軸線と、地域の人々や小学生たちの空へ向ける「眼差し」を絡ませてみる。その「眼差し」の彼方に、さらに大きく広がる環境を流れる、眼には捉えられない「ある風」の気配をよんでみる。“Reading the wind”
Visualizing an axis line linking Zempukuji Park and Momoshi Elementary School, the work is situated in two locations, the space high between trees in the park and the school west gate. The artist here attempts to entangle this axis line and the skyward “gaze” of community members and school children, endeavouring to read the signs in the “wind” which the eye cannot capture, and which flows in the expansive space beyond this “gaze”.
(企画書趣旨文から)
都市型の公園である善福寺公園と桃四小学校の間を貫く仮想の軸線。それは、この展覧会のテーマである「まちと森をむすぶかたち」を文字どおり象徴している。その軸線上に設置される二つの垂れ幕状のオブジェは、そこを吹く眼に見えない「風」を可視化させる。そこからは、この地域を取り巻く、眼に見えない磁場のようなものも感じられるだろう。この地域に住み、集う不特定多数の人々の「眼差し」が交錯された磁場が。 見上げる「空」は、まさしくこの地域を「むすぶかたち」の一部であるとともに、この地域から彼方へつながる広がり、つまり『3.11』以降から現在までの日本の「空」でもある。その空間軸と時間軸の広がりは、未来を担う子どもたちと、過去と未来の時間のつながりに責任を持つべき大人たちの「眼差し」も絡んだ心理的空間も暗示される。
今後の予定をお知らせしておきます。ぜひ両方の展覧会に足をお運びください。○11月13日(日)12:30ー
善福寺公園・管理事務所前の入り口からアート・ツアー。(ショートアクションを予定)
○11月13日(日)17:00ー
遊工房アートスペースにてコラボレーション「Silence」のアーティスト・トーク
(詳しくは10月16日のこの欄を参照。遊工房アートスペース10周年記念展の他の展示についても同時開催)
○11月23日(祝)12:30ー
善福寺公園・管理事務所前の入り口からアート・ツアー。(ショートアクションを予定)
■2011.10.31
展示・制作過程 報告
今回の「トロールの森2011」の野外展示と、遊工房アートスペースにおけるコラボレーションワーク(インスタレーション)の2つの制作過程を、簡単なメモ代わりにアップ。
10月13日 3人(芳子、Antti 、私)でのコラボレーションについてのミーティングを3回ほど経てから、この日、まずメインの素材となる大量の枯葉を善福寺公園で拾い集める。
当初、公園事務所では放射能のリスクを過剰に心配し、公園外に枯葉を持ち出すのは禁止するという方針だったが(ばかばかしい)、一応許可が降りた。リヤカー、収納袋などを借り、枯れ葉を集め、ギャラリーとの間を2往復。ギャラリーにストックした枯れ葉の中からがコウロギの鳴声が聴こえる。
10月16日 資材を持ち込み、床に置くすのこ状の踏み板を制作。サイズ・配置など、3人でゆっくりと作業を進めながら決めて行く。部屋を完全に暗くするために、段ボール、暗幕などで遮光。
構造上、天井からも周囲の壁からも光が入り、なかなか捗らず。その後、レジデンスに滞在中で時間の余裕があるアンティに、残りの細かな作業を続けてもらう。
10月20日 現場の状況を観察しながら、少しずつアイデアを提案し合い、試行錯誤をしながら進行。当初からそれぞれから様々なアイデアを出しては、検討し、絞り込んでいったプロセスだったが、次第にペースがつかめてくる。
しかし、遮光の方法や、光をどのような形で取り込むかなどの細部がなかなか決まらず。もう少し時間をおき、さらに熟成・熟考し、実験しながらすることが必要と判断。3人が別々に作品をつくる空間ではなく、統一した空間づくりのインスタレーションならではのゆっくりした時間経過。
10月23日 この日から善福寺公園での「トロールの森」の作品設置が解禁。それぞれ自分たちの作品制作に比重を移し、コラボレーション作業は一時中断。
10月27日 公園の森で、自分の作品の設置作業。
まずこの日は、二連梯子を使って二本の樹の幹にワーヤーロープを結ぶ作業から。高い方は約7mほど。地下足袋、ヘルメットも装備し、梯子の扱い、安全帯の使い方などの基本もおさらいし、安全第一での作業を心がける。一つ間違えれば大事故につながるので(自分が落ちても、作品が落下しても)慎重に作業をすすめる。
ボランティアで、韓国からの留学生のユンさん、音大生の池田真子さんの二人が助っ人に来てくれた。作業は思ったより重労働になる。重量がかかった状態でバナー状の作品を吊り上げるのに、一時は計5人の手を借りなければならなかった。朝から休憩をはさみ6時間ほど費やす。天候にも恵まれ運が良かった。10月30日桃四小学校・西門での作品設置作業。
10月30日 桃四小学校・西門での作品設置作業。
図工教諭の本永先生、植木職人の小橋さんが助っ人。前回の池田さんにも再び来てもらう。こちらは頭上高は約4mほど。森の作品より高くはないが、ワイヤーロープの取付け場所を決めるのに手間取る。予定していた鉄の支柱が、引っぱり強度に耐えられそうもないことが判明。5メートルほど離れたモクレンの幹へ変更する。二点間の距離が長くなったものの、念のため用意していた予備のワイヤーロープがあり助かった。やや手間取ったものの、2時間半ほどで無事終了。終了後、午後から夜までコラボレーションの設置作業を再開。
それまでにアンティが細部の遮光をしっかり処理しており、最後の詰めの作業となる。入り口ドアの遮光作業や、光を取り入れる窓の形の成形作業をしてから、土をポイントとなる場所に撒く作業実験。この日も試行錯誤をしながら、最終的に決まらず翌日に持ち越す。今日合流したアンティの妻カイサも様子を見に来る。
10月31日 コラボレーションの最終作業を夜から再開。
完全に遮光し、ランプを一つだけ点灯。意図した雰囲気の空間にかなり近づけたことを確認。翌日、アンティに日中の光がどのような効果で窓から入るか再確認してもらい、問題なければ完了ということに。
その後、深夜、公園の作品の再調整。回転するはずのバナーがロープのテンションの加減でスムーズに動かないのを調整したかったが、暗くて音も出せず、周囲の住人に怪しまれるもの何だし、翌朝に持ち越すことに‥。
振り返ると、少ない時間の中、内容の異なる二つの作業を同時並行して行くのに、かなり神経と体力を使ったが、なんとか11月3日のオープニングを迎えられそう。ぎりぎりセーフか。
特に、コラボレーションは個人作業では味わえない体験だった。英語のコミュニケーションはうまく捗らない局面もあったが、それでもお互いのイメージをゆっくり醸成しながら作業を練り上げて行く作業は貴重だった。それも2人でなく3人だったのが良かったかも知れない。2人だと意見が合わない時にどちらかが譲歩しなければならないこともあったかもしれないが、3人だとお互いの調整機能と展開作業に幅がでたように感じた。
■2011.10.25
標準原器
キログラム原器の基準が変更されるという。 近代科学を支えてきた基本7単位〈SI基本単位・「長さ(m)」「質量(kg)」「時間(s)」「電流(A)」「温度(K)」「物質量(mol)」「光度(cd)」〉のうち、物質的人工物で定められていた最期の象徴「質量」も、今後、別の物理定数(例えば原子の数から)で導きだされる値に変更されることになる。
原器という言葉も、分銅(プラチナとイリジウムの合金)という物体と結びついていた訳で、この言葉そのものもいずれ消滅して行くのかもしれない。
国際キログラム原器=国際度量衡局提供
この言葉から連想されるのは、やはり、M・デュシャンのこと。
彼は、20世紀初頭にアインシュタインの相対性理論が発した衝撃を、表現概念の問題としていち早く真剣に受け止め、それまでの近代芸術の概念、その世界観を再編成し相対化させることを試みた。そう、レディ・メイドによる、オリジナルとコピーの問題や再制作の問題など、いまだに折々で議論の遡上にあげられるし、例の《3つの停止原器》からは、誤差とかズレを内包することで新しいものが生み出されること、表現における偶然と必然性の関係など、私自身も気になるテーマとして様々な示唆を受け続けている。デュシャンの問題提起は、現代物理における相対性理論のように、現在の芸術を考える上でも礎になっている。
そう言えば先日、光より速いニュートリノの観測データが話題になった。相対性理論は「光速度が一番速く不変」という「絶対的基準」の元で空間も時間も、相対的に変化して(歪んで)いくという理論な訳だが、ひよっとするとこの標準が崩れてしまうことになるのかもしれない。アインシュタインもいよいよニュートンと同じように古い器に追いやられてしまう?
ある意味、標準原器のような基準があることによって我々の世界観は、「相対性」を許容できているのかもしれない。科学上の思考において、光速度のような基準がもし崩れてしまったら、相対の底が抜けてしまう。全てが相対化したら、何も頼るもの支えるべきものが失われ、もう一度物理の標準理論の再構築が迫られる。
日常生活においても多分同じだ。深刻な打撃を被り、変化を余儀なくされるだろう。あくまでもデュシャンのような芸術概念の思考実験は、日常を逆照射する人間の想像力の中のことと言えるのかもしれない。現在の世界観は、いうまでもなく20世紀初頭の激動のように再び揺らぎ始めている。ギリシャ危機しかり。あれはドルやユーロの貨幣の基準の揺らぎから来ている。貨幣価値が相対化された現実の世界は、政治・経済の仕組みを根本的に変えていくことになるだろう。
ところで芸術は?
現在の芸術は、絶対化への個人的(あるいは超越的)希求ということよりも、多元的で錯綜した世界観を示唆する役割に軸足を置いている時代に在る。デュシャンが切り開いた地平の延長上。相対化された視点がさらに複雑に入り組みながら、現実や仮想の世界の中に溶融している。見る側、体験する側にとっては、それは意味ある作用をもたらす。
一方、生み出す側に立つと、美術では90年代以降の地殻変動が一巡りし、再び停滞期に入っているように私は感じる。世界を見渡しても、20-30代の若手アーティストの作品や活動は、グローバリズム経済の中で如何に姑息に生き延びて行くか、というようなものばかり。100年前の形骸化した印象派やキュビズムのエピゴーネン達がダブる。このような相対性の底が抜け、均一化したアマルガム(異種融合したもの)ばかりが生み出されている逆説的状況で、出現が期待される次のデュシャンは、芸術をどのように再編成していくことになるのだろう。
■2011.10.16
展覧会 予告 (2)
10月1日の本欄でお知らせした「トロールの森 野外アート展」 と平行して行われる、遊工房アートスペースにおけるのコラボレーション展示のお知らせ。
遊工房アートスペース10周年記念
サイレンス Silence
丸山芳子 丸山常生 アンティ・イロネン 三人によるコラボレーション
Yoshiko MARUYAMA Tokio MARUYAMA Antti Ylonen
2011.11.3(木・祝)ー 11.23(水)
遊工房アートスペース Studio 1
(他に、Galleryで進藤環・玉木直子 二人展、Studio 2において椛田有理 個展も行われます。)
以下は、リーフレットの写真とプレスリリース用のテキストから。
昨年フィンランドで出会い、トロールの森2011にも参加する3人のアーティストによるコラボレーション。
3.11以降に生じた国内外の人々の心理の変化について共に考察を始め、「オンカロ(隠し場所)」がその出発点のキーワードとなった。「オンカロ」とは、フィンランドで建設中の放射性廃棄物の最終処分場の呼び名。ここに10万年間、危険な廃棄物を安全に保管する必要があるという。
3.11、あらゆるものが消失した静寂の地にて、人々は失いかけた記録や記憶をたぐり寄せつつ、一方で、記憶をはるかに越える長大な時間を意識した。
サイレンス。沈黙することと、明示することの間には、無限のグラデーションが広がっている。静寂の中で、かすかに存在する「なにか」。それは音もなく降りて来て、人や建物をも通り抜け、眼に見えず、気配もない。あたかもゴーストのように、ずっと私たちの傍らにそっと居続けるのか。
現在、すでにアンティは来日し、遊工房のレジデンスに滞在中。10年前にも来ており、今回が二度目の滞在制作。妻の芳子と顔を合わせながら三人でお互いのイメージ、意見を調整しつつ制作に取りかかり始めたところ。三人とも公園設置の作品の準備と同時並行で、けっこう時間調整が大変。 公園と遊工房は徒歩数分の距離。来られる方は、ぜひ両方の展示をご覧下さい。
■2011.10.8
カリスマの死
スティーブ・ジョブズの死報に対する、世の中の過剰ともいえる反応にはちょっと驚いた。これほど多くの人々が一人の実業家の死を悼むとは‥。 私は、1998年の初代ボンダイブルーiMac以降のMacユーザーなのでコアなファンではない。(あ、その前に中古のPowerbook5300も少し使ったっけ。)そもそもPC全盛の先鞭をつけた彼やビル・ゲイツ達とは同世代だが、そっちにのめり込んだこともさほどなかった。ちなみに日本式の学年ではジョブズが1学年上、ビル・ゲイツは同学年に当たる。
同時代を生きて来たとは言え、特にスティーブ・ジョブズの言動を漏れ聞くたびに、日米の文化環境の彼我の差を感じることが多かったことは事実。そう言う意味では、私なりに彼の成したこと、考え方の意味や魅力はある程度理解しているつもりではある。ソニーやホンダ神話とは異質の、一人の男が成した浮き沈みの激しい、悲喜こもごもの人生物語も。しかし、それでも世界中があんなに悲しむことなどちょっと考えられない。彼が単なる実業家ではなかったとしても、所詮、晩年は一人の独占資本家として振る舞っただけではないのか? という観点はぬぐい切れない。当初の反体制的な動きから、最期は貧富の拡大と国家の情報管理システムの強化の側に加担してしまい、人々を自由から遠ざけてしまった企業体のボスが招いた逆説。
なぜ、多くの人々はあそこまで無垢に彼の業績を讃えられるのだろう?
思うに、彼は人々のアイデンティティ、「私だけの、人とは違う自分でありたい」というささやかな欲求を満たす、換言すれば、人々の想像力の飛翔への幻想を掻き立てるカリスマとしてのアイコンを自作自演し続け、そのスタイルを売りつけるのが巧みな産業人だったのではないか。
「技術」や「思想」のコアな部分ではなく、メディアや文化産業の交通整理の役割を全うした人。そう言う意味では、優れて時代の先端を走りきった人物ではあった。
■2011.10.4
視界を切り抜く
杉並区立桃四(ももし)小学校の5年生たちとワークショップ。
この学校はコミュニティースクールとして、地域の中の開かれた教育現場として様々な工夫を重ね、実績を上げている。校長先生初め、特に図画工作の先生である本永安芸夫先生が、積極的に現代アートの活動を取り入れた数多くの機会も展開している。この日も本永先生の協力のもと、5年生の図画工作の時間を1日提供していただいた。
テーマは「視界を切り抜く」。内容はいたってシンプル。画家がモチーフを描く時にする、両手の親指と人差し指で枠どるポーズをとり、「空」「すき間」「からだ」といった視点で身の周りを観察する。そこから面白い形を発見したり作ったりして、デジタルカメラで写真撮影する、というもの。3クラス(計90名以上)が、2時間(90分)ずつ取り組んだ。
この日、生徒たちが撮影した写真の一部を、私の「トロールの森 2011」での作品に取り入れさせてもらい、校庭と公園の二カ所に展示することになる。
小学生対象のワークショップはこれまでも何回か行ってきたが、ほとんどが美術館や展示ホールのようなところで行ったもの。今回のように授業の現場、いわばアウェイの状況でのワークショップは初めてだった。(別に、美術館がホームグラウンドって訳でもないけど。)
だから、子どもたちは普段の学校生活の延長で、かしこまってはいない。男子も女子も一緒になって、和気あいあいと元気に取り組んでくれた。内容的にちょっとシンプルすぎたかなと思っていたが、彼ら彼女たちは、どんなことでもいい意味で自分勝手に遊びを取り入れ、夢中になってしまう。シラケるということをまだ知らない。
昼休みには教室にお呼ばれし、給食の時間も一緒に過ごす。子どもたちも物怖じせず、いろいろと話しかけてくる。5年生って、こんなに素直だったっけ、と思うくらい。
一日、彼ら彼女らと一緒に過ごし、こちらのエネルギーはほとんど吸い取られてしまった。ヘトヘトになったが、いい時間を過ごさせてもらいました。みんな、どうもありがとう。
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