2011年 (2)
⇒ 活動状況           2012年(1)
2011年(3) 2011年(2) 2011年(1)


■2011.10.1

  展覧会 予告 (1)

私が参加する、「トロールの森 野外アート展 - まちと森をつなぐかたち」 "TROLL IN THE PARK 2011"の予告です。

2011.11.3(木)ー 11.23(水)

都立善福寺公園とその周辺

参加アーティスト:
丸山 芳子 丸山 常生 西山 仁 川上 和歌子 横山 飛鳥 石井 隆浩 高島 亮三 黒野 裕一郎 カトリン・パウル ヤック・ピーターズ ビリー・スタイルズ アンティ・ヨロネン 村山修二郎 井上幸次郎 ジェイミ・ハンフリーズ
パフォーマンス団体・イベント企画
黒テント ラジオぱちぱち かっぽれ Netabarox 鳥越けいこ 橋本 フサヨ マルコス・フェルナンデス
 

以下は、リーフレットと案内文からの紹介。 

「トロールの森」野外アート展は、今回で10周年を迎える。
この10年間、毎年一定期間に出現しては、消えていった アーティストたちの手による幾多の作品は、少しずつ人々の記憶に留まり、多くの人々が毎年楽しみに訪れ、ここ杉並・善福寺の地に定着してきた。
しかしながら、この記念すべき年に、東日本は未曾有の大災害に襲われ、今も先の見えない復興への途中にある。多くの人々に支えられている「トロールの森」の今後10年を考えるとき、この活動も新たに「はじめの一歩」から再出発し、より充実したアート展となるよう力を合わせていきたいと思う。善福寺公園の「森」から、そして地域の小学校やアートスペースなど「まち」から、人々にささやかなアートの風を送り続け、この活動が、「まちと森をつなぐかたち」を提案するだけではなく、世代から世代へと人々を繋ぐものとなるように願っている。


「まちと森をつなぐかたち」とは、都市型の野外美術展であるここならではのテーマ。私が発表する作品は、この都市型の野外アート展の特徴を活かすプランを提示した。
具体的に言うと、善福寺池周辺の森の中と近隣の桃四(ももし)小学校の敷地内に、対になった二点の作品を設置する予定。それは両方の場所を結ぶ仮想の軸線上にある。3.11以降の日本の状況を視野に入れつつ、この地域に住む人々をメインの対象として構想している。

具体的には、後日また紹介します。



■2011.9.15

  Performance in Fukushima

先日(10日)福島県でパフォーマンスをしてきた。15分程度のショートパフォーマンス。

初め、スケジュール調整がなかなかできず、行くかどうか迷っていた。しかも、これまでも書いてきたように、3.11以降、何事もなかったかのように自分の作品を発表することは、簡単にはできないと感じていたし、ましてや「現地」で何ができるか想像できない部分も多かった。見る人も多くはない。
しかし、現地の空間だからこそできること、今しか共有できないリアリティーもあるだろうと、前日になって急遽、無理してでも行かなければならないと思い至った。

今の福島で人々と共有する時間を想像した時に、自ずと用いるアイテム(小道具)のアイデアも湧いてきたし…。


写真でもわかるように、大仕掛けはせず、人体模型、牛肉、鉛板を用いたシンプルなパフォーマンスである。
一見、ホラー風に見えるかもしれないが、実際はそうではない。中央のスポットライトの中で二人芝居風の、無音の淡々としたパフォーマンス。クスクス笑いも出るようなちょっとユーモラスで奇妙な一連の行為となった。見ていた方々も、その辺を妙にシリアス一辺倒に受け取らずにいただいたようで、やってよかった、と思った。

無論、それぞれのアイテムの象徴的な解釈などは自由だが、この地を巡る様々な時事情報に絡めた部分もあるので、比較的、物語的な展開ではあったが、取っ付きやすかったのではないだろうか。


■2011.9.6

  メディア・リテラシー

日本のマス・メディアが、戦時中の「大本営発表」を垂れ流していた頃と同じ体質、ご都合主義の隠蔽体質を未だに変えていないことは、3.11以降の様相を振り返れば明らかだ。優先的に報道されるべき情報、例えば生命の安全に関わる重要情報が、隠蔽されたり軽んじられたりされることが頻繁に起きている。一方、ネットメディアでは、様々な表に出ない情報をいち早く発信するものの、玉石混淆の情報が混在させたままノーチェックで垂れ流される。

そして、我々は視界に入る情報の真偽を判断できず、現実にどうしたら良いかの判断を出来ないことに苛立つことになる。例えば、放射能汚染状況、被曝問題などの報道一つとってもしかり。原発推進派は情報を矮小化しがちするし、反対派は怪しげな情報を肥大化しがちにとらえる。そしてメディアは視聴者(オーディエンス)が食いつきやすいよう功名に偏向・歪曲化する。

もちろん、このような傾向は、ナチスのプロパガンダ、アメリカのベトナム報道や9.11以降の愛国主義偏重報道を思い起こすまでもなく、日本だけでなく世界中のメディアが抱える、一筋縄ではいかない問題ではある

事実はどこにあるのか? どこにどう見出すのか? そして真実をどう探るべきなのか。
自らの足で全てを調べあげることが出来ないのだから、メディアを通じた情報収集は当然だし、不可欠である。

あらためて、そして今だからこそ、オーディエンス(情報の受け手)としての構え、メディア・リテラシーについて再確認しておきたい。以下は、1992年頃にカナダ(いち早くメディア・リテラシー教育を取り入れた)で発表された、そのキー・コンセプトの抜粋。


○ メディアは全て構成されている
→ メディアは現実そのものを示している訳ではない。
○ メディアは「現実」を構成する
→ 現実に起きている出来事から取捨選択されている。
○ オーディエンス(情報の受け手)がメディアを解釈し、意味をつくりだす
→ 同じ情報から全ての人が同じ反応を示すとは限らない。
○ メディアは商業的意味を持つ
→ メディア自体が商業化されており、オーディエンスはそのビジネスの中の消費者である。
○ メディアはものの考え方(イデオロギー)や価値観を伝えている
→ ふだん生活している社会構造を支えている理念が影響を与えている。
○ メディアは社会的、政治的意味を持つ
→ メディアそのものの社会的、政治的立場の色づけが施される。
○ メディアは独自の様式、芸術性、技法、決まり、約束事を持つ
→ コンテンツ(内容)以外に、それぞれ独自の伝え方のスタイルがあり、その約束事の元にある。
○ メディアをクリティカルに読むことは、創造性を高め多様なコミュニケーションをつくりだす
→ 多くの人々が力をつけ、民主的な意思決定過程を強化していくことにつながる


今読んでも、心に期すべき構えだと感じる。

私は微力ながら、1996年頃からしばらくの間、美術教育の中でこれを応用した授業をしたことがあった。ピュリツアー賞を獲得し、その後自殺したケヴィン・カーターの撮影した画像「ハゲワシと少女」と彼の自殺までのいきさつを教材に、イコノロジー解釈の一環で、「人はどのように画像を読み取り、解釈するのか、というテーマだった。その時の教材で使用したのが、上の抜粋である。

人は感情を揺さぶる大きな出来事に出くわすと、つい、この構えを見失い冷静に判断できなくなってしまう。時に、ナショナリズム、コマーシャリズム、あるいは巧妙な思想統制などが侵入してきて、性急な結論や安堵感を求めてしまう。それもまた、近代社会、資本主義、国民国家の構造の中では逃れられない人間の宿命なのだろうが、何かと手のかかる民主主義手続きを踏みながら真っ当な市民社会を築き上げて行く過程で、一市民が身につけるべきメディアと付き合う必要不可欠の態度と、自戒を込めておきたい。

もっとも、これはあくまでもマスメディアに対して。ネット内の無数小さな情報が反乱するようになった現在においては、このような悠長な構えだけでは通用しないことは確かだが。



■2011.8.30

  日常の変質

もう、8月も終わる。2ヶ月以上間を空けてしまい、ずいぶん更新を滞らせてしまった。
この間、何かと書くこと、書くべきことは多々あったし、途中まで書いたりしたのだが、アップするに至らなかった。

一つだけささいな理由をあげさせてもらうと、Facebookで飛び交う様々な情報(その多くが3.11以降の情報収集や読み込み作業だが)をチェックしたり、多少なりとも応答していてけっこう時間とエネルギーが取られてしまっていたこと。大した量ではないのだが、情報の発・受信の敷居が高からず低からず、幅広いのが私の生活リズムに合っていたかも。(登録されている方でもし興味があれば、→ こちらhttp://facebook.com/tokio.maruyamaものぞいてみて下さい。)


2011.8


さて、確かに
3.11以降、私たちがSF的設定だと思っていた世界を現実として生きるはめになっても、その中ですら、かつて非日常であった日常を淡々と生きている。というか無意識のうちに自らをそう仕向けている。一方、ふいに、この「非日常」の有様に震えおののく自分に気づき、我にかえる。「日常」に対する構えが根本的に変わってしまったのか。

この国で、豊かで平和で退屈な消費社会の中の「おわりなき日常」が喧伝されていたのが、いつだったことやら。これから当分(もしくは私がこの世に存在している間は)、「日常」と「非日常」がまだら模様で混在していくのだろう。放射線量値が高いホットスポットが思いがけない飛び地に紛れ込んでいるように。


2011.8 (線量計値:9.999μsv/h 計測不能)


想像力の恢復には、思った以上に時間がかかる。いや、恢復などしないのかもしれない。そう、被災地と同様、何事もなかったように元には戻りはしまい。想像力のあり方そのものを、自分の中で再構築しなければならないのだ。そう心にいい聞かせながらこの2ヶ月、いや5ヶ月が過ぎた。
もちろん復興への長い道のりはまだ始まったばかりであり、原発事故は現在進行中の出来事である。その途方もなさが、恢復力をこわばらせる。
一人の美術家として私は、そんな簡単に「元気づける作品」など出来る訳なかろう、とも感じている。(そうしたことを心がけている人を否定はしないが。)

むろん脳の表層の思考だけでなく、もっと奥底の身体を通じ作品を視覚化をさせるのがささやかな美術家としての使命。これから秋から年末にかけていくつか展覧会をするが、なんとか作品化に向けて新しいOS(想像力)を再起動させなければならない。

また、おいおい更新していきます。



■2011.6.12

  眠りを覚ました?

6月7日に発生した太陽フレアは、観測史上最大の大量物質が放出されたと考えられるという。(このニュース、もともと日本のメディアではほとんど報じられていなかったが。)
その後、電磁波、粒子線(宇宙線)などによる地球の通信機器等への影響も懸念されたが、どうやら大きなトラブルはなかったようだ。フレアが発生した場所が地球に向かって正面でなく、右縁付近だったのが幸いしたらしい。

ここ数年、11年周期の太陽活動のサイクルがずれていることが話題になっていたが、今年2月にも大きなフレアが発生しており、それまでの不気味な沈黙が次の爆発的な活動の予兆だったということになるのかもしれない。今回の極大期は今年あたりから始まり、2012〜2013年がピークになりそうで、NASAの研究者によるとかなり大きくなる可能性があるという。


NASAの太陽観測衛星"SDO"がとらえた6月7日のフレア。右下の白点は、私が付け加えた地球の大きさの目安。


以下のサイトで、太陽活動観測の客観的データが取得可能。

宇宙天気情報センター(今日の宇宙天気情報)
宇宙天気情報センター(黒点情報)


経済活動と太陽活動(シュワーベ・サイクル)の連関は以前から知られている。
景気循環理論の各サイクル(キチン・サイクル、ジュグラー・サイクル、クズネッツ・サイクル、コンドラチェフ・サイクル)は、シュワーベ・サイクルの約11年とそれぞれ対応するらしい。科学的根拠は研究者に任せるが、太陽活動と、地球の気象や人間活動が相関することは直感できる。ご愛嬌だが、私の身体(腰の具合とか!)だって、低気圧の到来と気温+湿度の関係で好不調の波が来るのがわかるくらいだ。それがもっと大きなレベルで人類全体の精神活動と関係している(はず)だろうことは充分推測可能だ。

そろそろ太陽が眠りを覚ます?

私の夢想の中で、爆発的な宇宙線の影響により地球を取り巻く磁気圏が乱れ、磁極が突如反転し生態圏に大混乱が生じるかもしれないというハリウッド映画が好みそうな破局的シナリオをふと思い浮かべてしまった。(この磁極逆転はこれまで地球の歴史の中で何度も繰り返されてきており、その度に生命の大量絶滅と進化のジャンプが起こったらしい。原因は不明。)
上の写真の、けし粒のような地球とフレアの巨大さを比較すると、いくら距離が離れている(1天文単位=約1.5億km)とはいえ、心穏やかではいられない。

まあ、これを例のマヤ暦の2012年地球滅亡説と結びつけるのはあまりにも安直だし(商売上手なオカルトマニアだったらいざ知らず)、根拠のないジョーク半分と言うことは念のため言っておくけれど、今、日本に住む人々は、自らの立脚する足下の不安定さに敏感にならざるを得なくなっていることは確かだ。いつか来るとわかっていながら、まさか自分の時代には来ないだろうとたかをくくっていた人間に、千年に一度の災害が降り掛かったのだから。そう言う意味では、数十万年に一度あるかないかの天変地異だって起きても不思議ではないと、半ば真剣に想いもする。

地震の心配のみならず、放射線被曝や地球温暖化の問題までが常態化してしまったこの災害列島で、さらにスケールの巨大な宇宙規模の変動まで想像を巡らせてしまう私の精神状態は、かなりストレスがたまって麻痺しているのか、あるいは鋭敏になっているのか、どちらなのだろう? 

「杞憂」の故事を笑えない。


補遺(2011.6.15)
この日アメリカの国立太陽天文台(NSO)の研究者は、2013年に最大を迎える太陽活動は非常に弱い可能性があり、次の太陽周期の始まりも遅れ、場合によっては訪れない可能性もある、という見解を発表した。太陽活動の予測は研究者によっても見解は様々あるようだ。



■2011.6.7

  撤退の勇気

ドイツが2022年までの脱原発を決めたようだ。

様々な条件の違いあるとはいえ、日本も同じことが全国民的に本気で論議され始めてしかるべきだろう。しかし、日本で起こったことといえば、先日2日の内閣不信任案の提出とその前後の茶番劇だった。ほとほと呆れ返る他ない。この国の政治状況(マスコミの馴れ合いも含めて)の病巣は絶望的に根深い。

現在の、原発に対する態度の取り方は、まるで第二次世界大戦中、戦争遂行にズルズル引き込まれ何もなし得なかった日本の構造的問題が、今でも全く同じということなのではないか。
様々な効率性と経済原理のパワー、そして情報統制の下で、ほとんど思考停止状態になっていたのは、自分自身も含めて多いに反省しなければならないことは確かだ。21世紀に入り「資本主義グローバリズム」の荒波をさらに被って、自らの大切にすべき国としての規範を創出できていなかったということだ。

即時撤退でないにせよ、段階的撤退を表明する「当たり前の勇気」を示せる政治的リーダーを私たちの多くが待ち望んでいるはずだが…。



■2011.5.26

  オンカロ - ONKALO (2)

オンカロ」は10万年間封印し、誰にも見せない、記憶をとどめないことへの"逆説的な永遠性"を目指しているともいえる。
ゴールデンレコード」のことを思い出した。1977年にNASAによって打ち上げられ、現在、太陽圏外へ出てからも信号を送り続けているボイジャー探査機に搭載された金属板レコードのことである。

遠い先の未来、別の知的生命体にボイジャーが発見される時のために、地球からのメッセージとして右写真のような図が施され、地球の音(各言語のあいさつ、音楽、自然音など)や画像がタイムカプセルのように収められている。ウラン238が表面に蒸着され、その半減期45億年から解析し、いつ頃つくられたかがわかるという。(放射性物質の存在と利用は、なぜか生態圏内より宇宙圏の方が似つかわしく感じる。)

カール・セーガンは「このボトルメールはこの惑星の住人に希望をもたらす」と語っている。素朴なロマン主義的な美学ではあるが、人類のポジティブな永遠性への希求がそこにはある。

「オンカロ」は、同じ永遠性でも希望をもたらすことはない。つかの間(それを決定した政治体制が続く間)、見せかけだけの安堵感を与えるだけだ。


想像してみよう。
例えば、遥か昔の文明が遺した迷惑な廃棄物を現在の我々が押しつけられたら、その文明、その人々を軽蔑し憎むだろう。その管理を誰が責任を持ってするのか? 倫理観にもとる同じようなことを我々は放射性廃棄物(使用済み核燃料など)でしている。
いや、前回書いたように、今だけの尺度で言えばオンカロの発想は、それでも一番誠実でマシな方法なのだ。他はこれまで海洋投棄、いまでも不透明な方法で投棄、あるいはプールなどで仮保管をしているだけで、あとは後世の人々の手にその解決を委ねているだけなのだから。

人類全体が、未来を抵当に入れ目先の甘い蜜を吸っている欺瞞性。それに悪気なく加担してしまう我々一人一人の欺瞞性…。

今秋、妻とともに、フィンランド人アーティストとのコラボレーションを計画している。そのテーマとして「オンカロ」のもつ意味を考え、検討を始めたところだ。先方も同意してくれ、これから少しずつコミュニケーションをしながら、表現として深めていくつもりだ。



■2011.5.22

  オンカロ - ONKALO (1)

フィンランド語で「隠し場所」。放射性廃棄物の最終的な永久地層処分場の別名。

原発を国策として推進しているフィンランドは、世界に先駆け暫定的な集積場ではない「オンカロ」を100年後の完成に向け建設している。そこは放射線が生物にとって安全レベルに下がるまでの10万年という長期間の絶対安全が求められている。

ホモ・サピエンスの歴史とほぼ同じ10万年後の生命体(すでに現世人類=ホモ・サピエンスではないかもしれない)の安全まで想定するとは! しかし、それはつまるところ、現在を生きる我々自身の問題と直結しているということを、彼らフィンランド人は察知しているのかもしれない。



渋谷のUPLINKで先週見たドキュメンタリー映画「100.000万年後の安全」のチラシ。
その後、NHKの再放送もあったが、こちらはなぜか「地下深く 永遠(とわ)に 〜核廃棄物 10万年後の危険」というタイトルで短縮版だった。(原題は" Into Eternity")
その「オンカロ」に関するドキュメンタリー映画を見た。
(2009年 監督:コンセプチュアル・アーティストのマイケル・マドセン)

興味深かったのは、埋めた後、ここは危険と警告する適切な方法を半ば可笑しくなってしまうようなことまで大真面目に考えている点。

どうやって?
言語で? 絵で? 記号で? 忘れるということを忘れない方法はあるのか? 
あるいは、何もせず記憶から消し去り忘れた方が良いのか? 
では、どうすれば忘れられるのか? どうしたら無視してくれるのか…? 

ここにはコミュニケーションとディスコミュニケーションの可能性と不可能性の双方が深く横たわっている。

現実に存在し続ける放射性廃棄物をどうするかの問題に対し目をそらさず、「不確実性の下の意思決定」に対し、責任放棄することなく、思考停止することもなく、真摯に考え、取り組む。
その開かれた政策の決定と実行プロセスは、原発への賛否はさておき、日本ではちょっと考えられない。


ネイティブアメリカンのイロコイ族には、重要な決定は七世代後の子孫にとってどうかを考える、という有名な逸話がある。日本人はどうしてこういう発想を尊重することが出来なくなってしまったのだろう。フィンランド人のことを思えば、単に現代文明の病とか、現代人固有の特徴ということでは片付けられまい。
今の日本の政策決定プロセスは、目先の利害や損得(利権)にとらわれ、それでいて将来世代に問題を先送りする無責任さが充満しているとしか思えないことばかりだ。


■2011.5.13

  インタヴュー

「展コミ(TENCOMMI)」という展示会や見本市などの参加企業向け季刊雑誌のインタヴューを受ける。
ソライロ・プロジェクトの仕事をきっかけに、すでに春号でプロジェクトの紹介をしていただいていたのだが、先頃の「SHIRASE」のお披露目後で、次号のクリエーター紹介というコーナーで取り上げていただけるらしい。

私の場合、この業界のこともよく知らず、ファイン・アートしかも現代美術家で、この雑誌にそぐわないのではないかとちょっと心配していた。しかし、担当の樋口さんのインタヴューは、私のことを事前にリサーチし、素朴ながらいろいろとアート関連の内容を丁寧に引き出してくれるものだった。

2時間ほどの予定が4時間近くに。我が家のスタジオでのインタヴューだったとはいえ、こんなロングインタヴューは久しぶりだった。出来るだけ平易な言葉を心がけたが、ちょっと取り留めなく話してしまったし、どうだったかな?
樋口さん、記事をまとめるのにけっこう大変かもね。



■2011.5.3 - 6

  被災地視察と鎮魂の旅 (2)

あらためて被災地の状況を見た後は、さすがに気持ちが沈鬱になった。

今さら何を、と思うなかれ。あの惨状を目の当たりにしてカラ元気など出しようもない。9.11の時や広島の原爆資料館を見た時とも異なるこのような気分は、以前、ポーランドのルブリン近郊、マイダネクの絶滅収容所の慰霊碑の膨大な遺骨や遺灰の山を見た時に感じたものに近い。

理不尽な人の死。その無数の痕跡の集積と、あっけらかんとした広大な空間の背中合わせの併存…。
現場を同じ地平で同じ空気を吸いながら目撃した、その強烈な力のせい? 頭で理解する前に体が否応なく反応してしまった。


旅の後半は、鎮魂気分で平泉から出羽三山、山寺と、宮城〜山形方面を巡る。

中尊寺は17年ぶり。世界遺産登録申請のせいか、かなり街並が整理されていた。(ちょうど7日には内定見込みの報道が流れた。)
まず、金色堂に朝一番のりで入る。たまたま山田貫首がお一人でまだ経を唱えておられた。しばらくそれをじっと聞き入り神妙に後ろに立っていると、読経が終わり後ろに参拝客がいるのに気づかれた貫首が、様々な寺物の由来や震災のことなど講話をして下さった。偶然らしく、こんなこと滅多にないらしい。
この連休中でも、人出は例年の十分の一という。街の観光産業は大変だろうが、私にとってはゆったりと拝観でき、格好の気分転換になった。

そして毛越寺の庭園を歩いた後、西方の羽黒山の出羽三山神社へ向かう。
日本の霊場(パワースポット)巡りを隠れた趣味にしている私としては初めての入山。ここも予想以上に良かった。延々と坂道が続く不規則な石段の参道を上るのは、最近体がなまり気味でちょっと堪えたが、次第に気分は浄化されていく。

雪が例年よりかなり残り、前日ちょうどブナの若葉が芽吹き始めたという月山周辺に一泊。
翌朝、湯殿山(三山の奥の院で、「語るなかれ」「聞くなかれ」と戒められた俗界と切り離された神域という)へも足を延ばそうとしたが、残雪の多さと震災の影響による燃料不足のため、5月の開山が遅れていることを途上で知り、引き返す。残念。

計画を変更し、最後に山形市内を通過し山寺・立石寺へ。
 閑さや岩にしみ入蝉の声
しばらくこの発句が思い出せなく、「フルイケヤ」じゃないしなぁ、と記憶の錆つきを嘆きつつ登山口を通過。山門をくぐり坂道の参道を登りながら修行僧が籠った洞くつを横目に眺める。なるほど、この岩肌と「シズカサヤ」が重なったか。蝉の声と閑かさの、現実と想像上の組み合わせの妙趣が確かにある。

帰京する頃には、だいぶ気持ちも平静に戻った。

想像力では超えられない現実と、想像力によって超えることの出来る現実。日常と非日常、形而上と形而下の世界の間のやりとり。アートとアクティヴィズム間のせめぎ合いを、質の高いところで融合させること…。
今回の旅では、両者の大きな振幅の間で右往左往しながら、今までも、そしてこれからも探り続けて行かなければならないことを、あらためて再確認することになった。

中尊寺 金色堂(内部は撮影禁止)

羽黒山の石段

出羽三山神社(月山 湯殿山 羽黒山の三神合祭殿)

月山周辺の残雪。まだかなりある。

山寺 納経堂


■2011.5.3 - 6

  被災地視察と鎮魂の旅 (1)

4月初旬に廻った被災地を、今のうちにどうしてももう一度見ておかなければという思いに駆られ、再びいわき経由で北上する東北地方への旅に出た。

前日深夜のスタジオ出演を終えた後、連休の交通渋滞を少しでも避けるため、そのまま筑波まで車をとばし一泊。常磐自動車道で、まず小名浜の「アクアマリン福島」へ。
ここは全国有数の施設だったが、以前の面影はなくなっていた。周囲の地盤沈下が甚だしく、飼育していた海洋生物の多くが停電の影響によって温度管理が不可能になり死滅したという。ここのクラゲの生態観察が大好きだったが…。

その後いわき市内を抜け、前回と同様に「警戒区域(20km圏内)」すれすれの399号を通り、福島県北部の国見インターまで北上。ラジオからは県内各地の時間ごとの放射能数値が当たり前の日常のように流れてくる。
途中、川内村〜葛尾村〜飯館村を通る。「緊急時避難準備区域(30km圏内)」と、圏外ながら放射能数値が高い「計画的避難区域」となってしまった、ほとんど人の姿がない地帯を通過した。

津波による被災とは全く位相の異なる風景…。
路傍の草花や桜は奇麗な花を咲かせているが、耕作や作付け作業は、途中で全く止まったまま。人の活動の気配はない。前回も書いたが、この奇妙で空恐ろしい風景には心の奥に突き刺さってくる何かがある。そして避難せざるを得なかった方々の無念さも。


東北道に入ってから盛岡で一泊。
翌日、陸中海岸に向かい宮古市に出る。浄土が浜の橋から見下ろした風景は対照的だった。宮古湾の北側の入り江の方は地形の偶然の作用か津波が弱まったらしく、美しい風景は残されていたものの、振り返って南西側の市内の方は、未だ混乱・混沌の極みを感じさせられた。

家族を逃がした後、自分は家で首まで水に浸かって助かったおじさんの話を聞く。とつとつと語る東北弁が逆にリアリティを伝える。こんな目に遭いながら、田老地区の方や南の釜石の方がもっとひどい状態とも言う。こういうことを言えるこの地の人たちの奥ゆかしさが心に痛い。

少し北の田老地区で目立ったのは、膨大なガレキの山、山、山。汚泥や散乱した遺失物は選り分けられた後のようだが、港沿いの土地が、瓦礫の広大な一時的置き場と化していた。
視覚的には、私がかつてよく行った埋め立て地の廃棄物処理場と一見同じなのだが、この廃棄物にならざるを得なかった「物」たちの由来は全く異なる理由から生じている。

この行方(処理作業)はどうなるのか。そもそも瓦礫(廃棄物)なのだろうか?

その後45号線を南下し、大槌町〜釜石市〜大船渡市〜陸前高田市を断続的に視察しながら通過。どこも凄まじいまでの津波の猛威の爪痕が残っていた。
陸前高田は、市街地の形から、壊滅した街の眺望が一挙に把握できたのが強烈なインパクトを残した。元の地形がそのまま判別できるほど、構造物はほとんど波にさらわれてしまっている。まるで遺跡か古い時代の廃墟のようだ。
しかし、まだ遺体捜索が行われていた。そう、確実に足下には行方不明の方々の遺体が眠っている。これは今の現実なのだ、とふと我に返る。


これらの現場に立ったら、報道などでは着々と進んでいるように思えた復興作業を全く誤解していたことに気づく。まだまだ手つかずの場所が随所にある。
そして「生」の世界と「死」の世界が確実に隣り合っているのを、現実の空気の中で五感を通じてリアルに実感する。

しかし、どうやら生半可な想像力を超える現実を目の当たりにすると、感覚は少し麻痺してしまうところもあるようだ。次第に頭がぼーっとしてきて思考力がなくなってきた。
しばらく、自分の想像力の発露が、現実に対しどのように働きかけられるのかを見つめ直す時間が必要かもしれない。それは肉親の死などの経験を通したものと似てはいるが、深い畏怖の感情を含んだ形而上的な関わりとともに、社会や現実世界の形而下的な関わりの大きさに、否応なく迫られてくるだろう。

それは「現代」に生きるアーティストとして、避けて通れぬ節目の時間でもある。いや、もっと単純に、今この日本でこの現実に出くわしてしまった一人の人間として、というべきか。

川内村:農作業は放棄されたまま。この空の向こう20km先が福島第一発電所。

飯館村:399号線わき。草花は咲いているものの、生き物の気配はない。

飯館村の子牛:いずこへ売られるか、処分されるか? 飼育者も辛いだろう。

宮古:橋から見下ろした市内の様子。打ち上げられた船が左に見える。

田老町:グニャグニャに曲がった防潮堤の鋼鉄製の門扉。

田老町:ガレキ置き場の遠望。寄ってみると生活の匂いが残っているものが多い。

陸前高田:数キロ先まで見渡す限り全てが被災している。

陸前高田:地盤沈下で海水が浸入している。右は野球場の照明灯。


■2011.5.2

  お披露目

ソライロ・プロジェクトが、ソライロアートと銘打たれてのお披露目。

おかげ様でボランティアスタッフの最後の追い込みで、なんとか正六角形ピースの取り付けと構造体の設営は一段落つき、この日に間に合った。
しかし、まだ最終的に目指す完成には至っていない。



全景(この後、周囲に吊り下げバナーがつく予定)


ステンレス球が周囲を映し出す


ショート・パフォーマンス
この日のイベントは「SHIRASE」の1周年記念でもあり、オーロラホール(元ヘリ格納庫)の天井に設営された各種のオブジェの下で、各方面からの講演とともに私の挨拶とショートパフォーマンスも行われた。

思えば東日本大震災をはさみ、一時このプロジェクトも実現が危ぶまれた感もあった。しかし、被災地から写真を送って下さるサポーターの方のレポートから勇気づけられたり、各方面の地道な実現へのご尽力で、ここまで漕ぎ着けられたと言える。
挨拶ではこの事への感謝の意を表明させていただいた。

パフォーマンスでは、昨年8月16日から今年4月16日までの16時と3月11日15時の震災時の地球画像(計10枚)と、凸面鏡等を小道具として使用。被災地の鎮魂のテーマも少し絡めながら、10分ほどのショート・パフォーマンスとなった。
観客の中には、以前某大学で指導したことのある元学生さん(今は良いお年の御婦人となっていた)がいたり、興味津々でご覧になっていた方々も多かった。断片的な行為の連続を見た後、「あれはこういうことだろうか?」などと感想をお互いに述べ合ったり、皆さんけっこう見慣れぬパフォーマンスを楽しんでいた様子。

この日の深夜、再び"SOLiVE24"のスタジオでゲスト出演。
プロジェクトへの思いと感想、そして今後このプロジェクトが
もうしばらく継続していく予定をお話しする。



■2011.4.21

  協働作業に向けて

ソライロ・プロジェクトの、13,000枚ほどの正六角形ピース(Hexagon piece)の取付け作業が始まった。想定した枚数より若干少なく、予定の面積を全て埋められる量になるのかまだ判断できない。

しかし、私にとってこのプロジェクトは完成させる事(だけ)が目的ではない。
完成に向け、協働しながら努力する事は無論大切なのだが、それ以上にそこに至るプロセスを重視している。いわば、パフォーマンス・アートと同じようなもの。つまり、予定調和的・合理的に予定された地点に到達するのが目的の「旅行」ではなく、その都度様々な出来事に遭遇しながら歩む「旅」のようなものだ。「旅」は、その遍歴の過程そのものがエッセンスなのだ。

ただ、経済活動や合理的原理の内で多くの時間を過ごす人々にとっては、このことを頭で解っても体で感じる事は難しい。どうしてもきれいごとのようにしか感じてもらえない事が多くなる。
これはこれで仕方がない。文明とはそうして発達してきたのだ。そうして少なくとも私たちは「豊かさ」や「便利さ」を少しは享受してきたのだから。でも、アートの活動は文化の領域だ。文化的なことには、一見無駄に思える事や非合理に感じることが多くなるのはやむを得ない。






左図)取付けプランの図面
右上)取付けられた初めの一列目のピースと設計図面を見上げる
右下)並べられたピースの一部

この後のピースの取り付け作業では、様々なボランティアスタッフの方々の協力が必要となる。それに関わってくださることは本当にありがたい事だ。協働作業の醍醐味や成否は、この方々の思いやエネルギーをどのように吸い上げさせてもらうかにかかっている。

これはもちろん私だけの作品でも、協力していただいているウェザーニューズさんだけの作品でもない。まぎれもなく、多くの方々との協働(コラボレーション)作品なのだ。私はたまたまそのプラン形成や進行の中心に位置しているに過ぎない。
このことは私の責任を曖昧にするのではなく、逆に私の意思を明確にし、協力していただく皆さんにしっかりと理解してもらう努力を一層深めなければならない事を意味している。私がアーティストとして意思表示なければならないこと、私だけしか言えない事をはっきり表明する責務がある。そうして初めて様々な人たちの感覚やアイデアが交換・共有され、プロジェクトの方向が定まっていくことになる。

残された時間は少なくなってきたが、「旅」の醍醐味が、これからさらに深まっていくことを期待したいものである。




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