2009年 (3)
⇒ 活動状況           2012年(1)
2009年(4) 2009年(3) 2009年(2) 2009年(1)


■2009.11.19

 はじめる視点 (4)

福島県立博物館
『はじめる視点』の会期(11月23日まで)がそろそろ終わりに近づいてきました。だいぶ遅くなりましたが、展示風景を紹介しておきます。

"Simultaneous Positioning” - 彼方と此方

右が展示の全景。
近世の展示コーナーにある伝馬船の帆に、気象衛星から撮影された流れる雲の映像をプロジェクション。(6月の個展で用いたものとは別)

縮尺された同形の伝馬船が、天馬船(天駈ける船)として、モビール状の天秤の竿に吊るされている。帆は後方の写真パネルの空と同色の空模様。

館内の僅かな気流でゆっくり回転しながら動くモビールの片端には、脳模型が入った球体(以前に書いた船のわきに置かれたオブジェの片割れ)と、ガラス円盤が入っている網かご状のオブジェがバランスをとりながら揺れる。

もう一度コメントを以下に載せます。
残り短い会期ですが、どうぞお時間が取れましたら、紅葉見物も兼ねて会津までお越し下さい。実際に見るとさらにいろいろな発見があるでしょう。

 昔、日本列島に生きた人々は、『彼方(かなた)= かつて・いつか・むこう・どこか』を、他界として畏怖し、あるいは崇拝した。より良く生きたいために。それには、『此方(こなた)= いま・このごろ・こちら・ここ』を逆に照らし出す作用があったのだ。
 今に生きるわれわれはどうだろうか? 此方にどっぷり浸かってはいまいか。しかし、人はいつの世でも他界を必要とする。今のそれは「遠くからの眼差し」としてわれわれを逆照射するだろう。そして、われわれに「ある謙虚さ」を思い起こさせてくれるはずだ。
 この作品では、船(伝馬船)を双方の往来の象徴と見立ててみたい。何かを届け、何かを持ち帰る。場所と時を超え、何を運ぶのかは、あなたのよりよく生きようとする気持ち次第。



■2009.11.16

 川崎・KAWASAKI (2)

(11月14日 前回からの続き)

パフォーマンスの後は、シンポジウムとなった。
内容は主に現在の彫刻(野外彫刻)をめぐる状況
と、「ART KAWASAKI」というアートイベントの発信力と可能性について。(以前予告で書いたように、元々このイベントは彫刻展からスタートしている経緯がある。)

司会の藤島俊會氏が、近代美術館と武蔵野美術大学で現在開催中の権鎮圭
(クォン・ジンギュ)の彫刻作品から感じられた強度を手がかりとしながら、日本の彫刻、特に野外彫刻の歴史から現状に至るまでの感想(基調報告)を述べられた。
次いでゲストパネラーの宮田徹也氏から、それを受けながらゼロ年代以降の日本彫刻をめぐる不毛性(本人はこの言葉は使っていなかったと思うが)についての分析が加えられた。また、同氏からは今日の私のパフォーマンスについて、彫刻という様式の可能性を敷衍させたサイト・スペシフィックの最たるものとしてとらえる話も出た。さすがツボを心得ている見解。この「川崎・KAWASAKI」
*という地でのパフォーマンスで、私が密かに考えていた裏テーマをきちんと見抜いている。
途中、私自身は今回のパフォーマンスと彫刻をめぐる関係として「重力への拮抗」というキーワードを示し、また「ART KAWASAKI」の今後に対し、いくつかの提言等をさせてもらった。

全体的には話が拡散しすぎた感があった。3時間の間で盛り上がりをみせたのは、オーディエンスで来ていたギャラリー・サージの酒井信一氏が、実行委員会の中心作家、吉本義人氏に「今まで(6年間)互いの作品について真剣に意見をぶつけ合ったことがあるのか?」と迫った時。関係者同士の濃密なバトルロイヤルを求める独特の酒井節を久しぶりに聞いた。昔と
変わってないね。元気だ。

終了後は、二次会で吉本さんお勧めの焼き肉屋へ。詳しくは書けないが、まさしく日本の近代を支えてきた京浜重工業地帯・川崎の歴史を物語るディープな場所にある。知らない人は絶対に行けまい。そして、ここで同席した渡辺治氏から、この地域の様々な歴史や現状について話しを聞く。彼は地元で「川崎ファクトリー」という設計事務所を開き、地域密着型アートイベントのプロデュースや社会活動も幅広くしているので、ここならではの興味深い話が多かった。
帰途、彼に迷路のような周辺地域を案内してもらい、ついでに様々なトマソン物件や街中アートの痕跡を見て、最後はファクトリーの事務所までお邪魔してしまった。いやーっ、面白かった。どうも有り難う、渡辺さん。そして夜遅くまで仕事していた若いスタッフの皆さんも。

以前かかわった川口も面白かったが、川崎もそうだ。東京という中心からみれば、共に「端っこ・縁
(へり)」、あるいは「川向こう」に位置する。私はどうもこういう周縁地域の方により魅力を感じてしまう。

*「川崎・KAWASAKI」という記述には、この地の過去〜現在〜未来に至る歴史や時間、人の意識の変化の重層性を私なりに込めている。



■2009.11.14

 川崎・KAWASAKI (1)

「ART KAWASAKI 2009」での野外パフォーマンス公演。

当日の天気は大型低気圧の通過で雨模様となった。予報で分かっていたし雨天決行だったので、その心づもりで現地(Think敷地内)へ向った。
13:00開始予定の1時間前に着くが、おや、誰もいない。そこでは横殴りの雨と、海風とビル風が相まって、台風並みの暴風雨となっていた。これほどの大荒れになるとは想定外だ。傘など役に立たない。始まったら、無論自分はずぶ濡れになるが、観客はいったいどのように見ることになるだろうか?
「やれやれ」と思う一方、この状況でいったい何が可能かと開きなおり、逆に集中力も増してくる。しばらく車の中で待機しながら、この場で五感を刺激された身体と頭脳が、徐々に回転し始めた。

パフォーマンスをする時、ささやかな信条がある。どんなに悪条件でも(仮に観客が一人しかいなくても)手を抜かずにやる、ということ。当たり前とはいえ、けっこう難しい。事前に様々な想定をしながら、「どうするか、どうなるか」を想像するとワクワクする。元々私は予定調和的で計画遂行型のパフォーマンスを志向していないし、今回のような偶然性と悪条件が大きく作用する状況を迎えるのを、心のどこかで歓迎している。その場その時限りの出会いに否応なくエイッと飛び込み、交歓するダイナミズム。これで自分自身も鍛えられる。関係者に対する礼儀もあるが、気を抜いたり手を抜たりできはしない。これはけっして独りよがりでも、場当たり的な無責任さでもない。私なりに長年やってきて培った信条だ。もちろん少し怖いし、うまくいかないことだってあるが。

集中しながらシミュレーションをいくつかして、30分程前から簡単な小道具を準備し始める。観客の方もぽつぽつと集り始めた。この後シンポジウムもあり、さすがに一人も来ないということはなかった。「まあ、良かったな」と思っているうちに…

おや? みるみるうちに分厚く暗い雲が猛スピードで流れ去り始めた。天気が回復してきたではないか。5分も経たぬうちになんと青空まで見えてきた。普通なら観客の方共々喜ぶべきことなのだが、さすがにちょっと焦った。だって、普通の雨模様から暴風雨の中の想定に切り替え、小道具を選択し、身体も頭脳もそのモードになっていたのだもの。
いやはや、今度は「風雨なし」モード(しかもまたいつ降り出すかわからない)に切り替えなければならないではないか! 10
分くらい前から幾人かと挨拶を交わしながら、片や身体も頭脳もフル回転でモードチェンジ。内容も、使う小道具もさらに急遽変更することにした。
感覚がより研ぎすまされ、思考が切り替わる。こうなると、あとはもう開始した後で、周囲の状況と身体の反応・直感がいい形で噛み合ってくれることを祈るのみ…。

という訳で、今回のパフォーマンスをご覧になった方には、おそらく予定の段取り通りに淡々と進んだ15分間に感じられたかもしれないが、私の心の内はジェットコースターに乗ったような気分で行為していたのだ。

タイトルなし(約15分) 

使用物:傘 DVDプレーヤーと地球気象衛星による雲画像 球形状のオブジェ 樹木 葉 土

傘は3年くらい前からよく用いているアイテム。野外公演でしかも雨(結果的に雨上がり)という状況で「しっくり」しすぎたかもしれない。(晴れたり室内で傘を用いた場合の、違和感がかもし出されるのとは違う雰囲気に)
(上左)風を孕んだ傘を飛ばし、この場の不可視の風が地球の大気の流れとつながることを暗示。
(上右)ぶら下がった傘に雨水が溜まりその水を用いる予定がそうならず。まあいい。上方からの落ち葉一枚が中に散った。
後ろは旧日本鋼管の正門にあった門柱。
当初予定になかった行為。
観客に靴を脱いでもらい地球儀が入った小さな半球の上に足を乗せてもらう。私は片割れの半球に靴の裏のドロやカスをこそぎ落とす。これまで断片的に同様の行為をしたこともあり急遽登場願う。
本物の大地(土)と疑似大地(想念の中の環境)が一人の身体でつながる。この時、観客の身体は一つの彫刻的存在に近づく。


■2009.11.8

 弔意

再び、訃報から。
渡辺好明氏 54歳。東京芸大 先端芸術表現科教授。4日、心不全のため死去。

大学時代の同期。当時の写真を探したが、彼が写っているものはほとんどない。ようやく見つけた左は、昭和57(1982)年3月の大学院修了時に、有志が芸大正門前で撮影したもの。(撮影者不明 右端が渡辺君、最後列中央が私。)

外見的には静かで内向的だった彼は人づきあいは多くなかった、というか、あまり良いほうではなかったと思う。そんな彼と、在学中にグループ展を開催したことがあった。

"Each one of Five"
(1980年5月 神奈川県民ギャラリー 参加者:渡辺好明・池田敏博・丸山常生・武井正芳・小林亮介)

どういう経緯でこのグループ展をしたか、実ははよく覚えていない。渡辺君が横浜在住の資格で神奈川県民ギャラリーを申し込み、身近な仲間で誘い合わせたのだったかな? 私以外のメンバーはお茶美(美術予備校)出身で馴染みが深かったようだ。
タイトルは味も素っ気もない。何となく寄せ集ったので、共通したテーマも特にない。皆でタイトルを相談したが、渡辺君も淡々と静かにしているし、苦し紛れに「これでいいんじゃない?」と私が言った記憶がある。若かったな。

確か、彼は大学外で発表するのはこれが初めてだったのではなかろうか。大学院1年の彼と私は卒業制作展を終えたばかり。その後の制作の展開をどうするか考えていた時期だ。広い会場で作品発表できるのは互いに良い機会だった。(ちなみに他の三人は学部4年。一人は同期入学だが留年。あの大学の、しかも油絵科は上下関係はほとんど関係ないのだ。)
渡辺君の作品は当時から自身の内で完結していた。彼は卒業制作とほとんど同じような平面作品を出品した。彼なりの確認作業だったのだろう。私はそれに李禹煥やロマン・オパルカ
(Roman Opalka)の影を少なからず感じたものだが(それがまずい訳じゃない)、そのことについて突っ込んだ話はしなかった。というか出来なかった。ナイーブだが芯の通った強さは彼の性格でもあり、その体質が作品にも体現されていたから。
それはその後も継続されていき、後年のインスタレーションの展開を見ると、素材は変われど、「時間の可視化」のテーマが、この頃から既に内包されていたのがわかる。

最近はほとんどつき合いはなかった。TAP(取手アートプロジェクト)や、大学内の仕事でえらく忙しくしているのは人づてに聞いていた。
芸大を出て海外へ留学した後、彼の中で何かが変わったのだろう。一見、社会性とは無縁で、あまり社交的でなかった若い頃の彼を知る人間から見ると、芸大の職に就いてからの、人と人、人と社会を結びつけようとする精力的な活動は、にわかに信じ難いところがあった。あれは本人の生真面目さや責任感ゆえに過度に働いていたのではなかろうか? あるいはそち
らの職務の方に情熱を燃やせる何かを見出していたのか? まあ、あくまでも勝手な憶測にすぎない。

今、トータルで作品を振り返ると、彼がよく用いた螺旋形を描くような展開だった。それも、高みから見下ろすとずっと同心円状の運動を繰り返しているような。本人の制作意識の中では、既に何かを言い切ってしまっていた感じがあったのではないか。そう、グループ展をした若い頃と基本的に違わない。新作もあまり発表できない忙しさの中で、結果的にプツッと円環は閉じられた。残念だが、それはそれで見事ではある。

ご冥福をお祈りします。合掌。


■2009.11.6

 芸術と人類学的視座

クロード・レヴィ=ストロースの死去(先月30日)が一昨日報じられた。

現在、福島県立博物館で開催中の『はじめる視点』の企画コンセプトは、マルセル・モースに影響を受けた岡本太郎の活動に焦点を当てている。そのための制作・展示の過程で、私自身の美術活動における人類学的関心について振り返っていた矢先だった。また、ルロワ=グーランの『身ぶりと言葉』を、丁度、読み返していたタイミングでもあった。シンクロニシティーか。
レヴィ=ストロースは、マルセル・モースの仕事の遺産を引き継いでいる。また、ルロワ=グーランとも関係が深い。

先史時代にヒトが世界をどのようにとらえていたのか? それが今のわれわれをどのように規定し、あるいは可能性の温床となっているのか? といったような原理的問いかけが、私の芸術的動機づけの深いところに潜んでいる。それが文化人類学的なフィールドワークの方法を自分の美術活動に取り込んでいった遠因の一つになった。岡本太郎とは方向性が違うが。
レヴィ=ストロースは、その動機づけをさらに深淵な地点から裏づけてくれる強大な思想を付与してくれた。私に、というより全人類に対して。

もっとも、
私は彼の良き読者とは言い難い。大学時代に読んだ川田順造や山口昌男経由でかじった程度。しかし、こんな私でも構造主義が及ぼした大きなインパクトのおこぼれに、充分、与(あず)っている実感がある。(もちろん当時ニューアカブームとともに読まれたポスト構造主義も含めて)
特に若い頃に眩しく感じ、捕われがちな「主体性」とか「理性」偏重への異議申し立て。そして、抜きさし難くあった(今でもある)西欧中心主義からの脱却を準備したこと。これは、20世紀に人類が彼から贈られた普遍的価値観をもつ思想的態度だ。

近年でも、中沢新一などの著書から、レヴィ=ストロースの豊穣な世界を再認識する機会が時々あった。ここで、もう一度原典にじっくり当たる必要があるだろう(日本語だけど)。まだ、汲み取るべき多くのものがあるに違いない。
そういえば、数年前に読んだ晩年の『みるきくよむ』
は、彼の人類学的視座からとらえた、芸術や創造を巡る小さな宝石のような好著だった。翻訳の読みやすさも手伝っていたかな。



■2009.10.28 - 30

 「野外展」・2題

『トロールの森 2009』  
(11/1〜22) 善福寺公園 東京杉並区

28〜29日の2日間、妻芳子の作品設置を手伝う。
彼女は昨年もこの展覧会に参加。今回も朝から陽が落ちる夕方まで、土と草と樹木の中での肉体労働を続けた。疲労感はけっこう残ったが、フィトンチッドの中での作業は健康には良い感じ。彼女自身はさらに1日かけて善福寺・上池の林の中に設置を完了させた。
作品は、源頼朝が奥州征伐の折、この地で自ら弓で地面を掘り水を湧き出させ、軍勢の渇きを癒したという故事を題材にしたもの。今回の展示作品の中では一番典型的なサイト・スペシフィックなものとなっている。なかなか良い。
今回で8年目を迎えた同展は、生息する動植物に対する配慮や地域住民に様々な気を配りながら、慎重に計画を立て準備を進めてきた経緯がある。作業中、散歩中の近隣の人たちから気さくにいろいろ話しかけられた。住宅街の中のささやかな自然での美術展示の特色が次第に興味を持って受け入れられ、徐々に認知度が増してきているようだ。


『ART KAWASAKI 2009 − 川崎に生えてくるもの』  (10/1〜12/4) アウマンの家周辺広場(THINK敷地内)

30日、オープニングパーティーへ。ここでパフォーマンス公演の予定があり、そのための下見も兼ねて顔を出した。

[パフォーマンス公演のお知らせ]
11月14日(土) 13:00〜 上記(アウマンの家周辺)にて →アクセス・地図

終了後、16:00までシンポジウム(テーマ:かわさきで語るアートの可能性)
司会:藤島俊會(美術評論家) 
ゲストパネラー:宮田徹也(日本近代思想史研究) 
パネラー:ART KAWASAKI展参加作家

会場は、「ものづくりの街」川崎の臨海部にある新産業拠点の「THINK」。JFEスチール(旧日本鋼管+旧川崎製鉄)の敷地内で、芝が敷かれている地面が主に利用されている。土地柄から、この展覧会は鉄などを用いた「彫刻的」な作品を展示するところから始まっている経緯がある。近年はインスタレーションも含みながら、パフォーマンスなどのイベントも平行して行われている。展全体のテーマ性がやや弱い感もあるが、行政や地元財団の協力もあり、今年で6年目を迎えている。

11月14日(土)13:00 からの私のパフォーマンス、ぜひお越し下さい。20分前後の予定。終了後はシンポジウムになります。

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私自身が、'80〜'90年代にかけて頻繁に野外展示をしたことを思い起こす。
しかし、既に「野外展」という呼び方はホコリをかぶっていることに気づく。そもそもこれには「屋内」(ギャラリーや美術館の展示空間)を無意識のうちに対極としていた残照がある。'90年代半ば以降の美術の地殻変動を経た今、このような対比的な枠組みはとっくに解体されている。(まあ、別に呼び方にこだわることはないし、他に思いつかないからここではそのまま便宜的に「野外展」としているけど。)

海外では山野や街中を問わず、野外(屋外)で行われる美術展やフェスティバルなど数えきれないほど行われている。もちろん日本でも、現在は様々な地域発信型アートプロジェクトなどで、野外展示という方法は当たり前になっている。妻有トリエンナーレでも、多くの観客がその方法を自然に受け入れ、楽しんで関わっている。そのことを思うと、自分がそれなりにラディカルな問題意識(フィールドワークという方法論をアートに持ち込みながら)を持って発表を始めたかつての頃とは隔世の感がある。

これには、作品発表のあり方が多様化し、その発表の場がたまたま自然の中や都市だったり、歴史性が濃厚で堆積された記憶を呼び起こす場だったりすることから、アーティスト達が発想の手がかりを多く発見するようになってきた経緯がある。作る側も見る側も、それぞれの日常の中で敷居の高くない芸術鑑賞としての関わりが、自然体で出来るようになってきたということだ。

これは基本的に良いことだと思う。
日常の中で、さりげなく“気づき”を誘発する(される)という名目で、実に多くのプロジェクトが各地で行われるようになった。美術(アート)がコミュニケーションのツール、あるいは現実認識の手段の一つとして広く認知されるようになったという訳だ。

一方、見方を変え少し皮肉まじりに言えば、アートをやや矮小的にそれだけのものでしか捉えられなくなってしまっていると言えなくもない。(アートなんて所詮そんなもの、という意見があるのは承知だが、私は単純にその考え方には与(くみ)さない。)
ある種の挑発性とか、びっくりする程の意味の深みや豊かさといった要素がスポイルされている傾向を感じることがある。作り手側だけに限ってみると、
お手軽で陳腐化された方法論が漫然と踏襲されている作品が少なくはない。

長くなるので、このあたりのことは何かの機会に。



■2009.10.7 - 12

 はじめる視点 (3)

この期間、会津若松の福島県立博物館へ二度往復。

初めは、台風8号の暴風雨が心配される中、7日夕方から搬入。閉館後の5:00
から観客が引けてセッティング開始。通常の常設展示の資料のレイアウトは変更できないということで、破損等の事故が起こらないよう慎重に作業を進める。作業そのものはプロジェクターの高所設置や、高さ8メートル程の天井から吊るオブジェの設置なのだがなかなか捗らない。結果的に、夜半過ぎの1:30頃まで9割方作業を終了。宿へ戻るが、強風の音が激しくあまり眠れず。
翌日の日中、台風の眼が会津若松市上空を通過する中、気分転換で鶴ヶ城などを歩いてから、再び夕方から残りの詰めの作業をして完了し、帰京。思ったより、台風の影響を被らなかったのが幸い。

会期は始まったばかり。まだ作品の全景をここにアップするのは早いと思うので、今のところ下の写真でご勘弁を。

手前が、伝馬船わきの展示台に置かれた一つの小さなオブジェ。
これは地球儀状で、中に脳模型が入っている球体と上部に凸面鏡を組み合わせている。もちろん単独の作品というより、全体的な構成と関わっている。ミラーは私がよく用いる素材。今回の作品も観客の眼差しと周囲の状況(上方にある作品を含めた)を映し込む。ここでは現代的な「御正躰
(みしょうたい=神鏡)」のイメージも込めている。
後方の小さな白い物体は、元々ある資料展示の「舟霊
(ふなだま)様」。これは漁師たちが海上安全や大漁を祈るため、舟の見えない場所(舳先や帆柱の下など)に密かに祀られるものという。

博物館の歴史的・民族的資料とのコラボレーションで触発されたことがこのオブジェに反映されている。作品空間全体を見渡した時、気づかれないかもしれないほど目立たず、常設展示の中に紛れ込んでいる。見えるものと見えないもの、顕(あら)わにされるものと隠されるものの両義的ポイント、あるいは身体の中の「へそ」のようなものとして捉えていただけたら、と思っている。(全体を実際に見ないと解りづらいだろうな。)

10日に会期がオープン。写真撮影のため11-12日の連休に再び訪れる。薄暗い空間の中、プロジェクターから投影された動画映像と、僅かな気流の流れによって揺れ動くモビール状のオブジェを一緒に収めるのは、構図も露出も非常に難しく、これもなかなか困難な作業。かなりの枚数を撮り、マシなものを後からチョイスすることになるだろう。


■2009.10.2

 はじめる視点 (2)

何回かお伝えしてきた福島県立博物館での企画展のお知らせ。

岡本太郎の博物館
はじめる視点
博物館から覚醒するアーティストたち

10月10日(土)〜11月23日(月・祝)

福島県立博物館


岡本太郎は、フランス留学中の若き日にマルセル・モースに人類学を学び、人類学博物館に足しげく通いました。第二次世界大戦後には東京国立博物館で縄文の美を発見し、大阪万博の太陽の塔に集められた世界中の仮面・神像のコレクションは、国立民俗学博物館に引き継がれます。現代日本を代表するアーティストは博物館と深い結びつきがあったのです。本展は二つの展示で構成されます。
企画展示室では「岡本太郎の博物館展」。岡本が撮影した“モノ”の写真、そして福島県内・東北地方の考古・民俗資料により「東北の太陽の塔」を構成します。常設展示室では「博物館から覚醒するアーティストたち」展を開催。原始時代から現代までの歴史を語る資料と現代アートの共存は新たな発見を生み出すでしょう。
二つの展示をつなぐキーワードは「はじめる視点」。日本文化の深層に目を向けた岡本太郎と、郷土の歴史を紐解く次世代のアーティストたちの視点が展示室で交差します。博物館から何かが始まります。 
(リーフレット 案内文より)

私は常設展示室での「博物館から覚醒するアーティストたち」展で、「山国の民と人」と「海のなりわい」というコーナに展示する。その中の「伝馬船」がある一角に"Simultaneous Positioning"シリーズの新作インスタレーションをする。以下は、この作品についての館内掲示用コメント。

[タイトル]“Simultaneous Positioning” - 彼方(かなた)と此方(こなた)

[素材]:DVDビデオ プロジェクター その他

[コメント]
昔、日本列島に生きた人々は、『彼方(かなた)= かつて・いつか・むこう・どこか』を、他界として畏怖し、あるいは崇拝した。より良く生きたいために。それには、『此方(こなた)= いま・このごろ・こちら・ここ』を逆に照らし出す作用があったのだ。
今に生きるわれわれはどうだろうか? 此方にどっぷり浸かってはいまいか。しかし、人はいつの世でも他界を必要とする。今のそれは「遠くからの眼差し」としてわれわれを逆照射するだろう。そして、われわれに「ある謙虚さ」を思い起こさせてくれるはずだ。
この作品では、船(伝馬船)を双方の往来の象徴と見立ててみたい。何かを届け、何かを持ち帰る。場所と時を超え、何を運ぶのかは、あなたのよりよく生きようとする気持ち次第。

来週、搬入・セッティングの予定。10日より開催。お時間がありましたら、ぜひご高覧下さい。博物館の資料展示の中に現代アートが絡むという企画でもあり、けっこう楽しい展示になるでしょう。
これについては、また後日記述します。



■2009.9.22

 ある諦念 (2)

8.13の倉庫掃除の続き。前回やり残した整頓作業と、廃棄処分にする作品の分別・持ち出し、処理場への搬入作業。
既に心の整理はある程度ついているので、淡々と作業がすすむ。事前に許可を得て、市のゴミ処理場に、1tトラックと軽トラック2台分のバラした3人分の処分品を持ち込む。
巨大な投入口から、深さ2-30m程ある巨大な可燃ゴミのストックヤードにスチレンボードのパネル作品を投げ込み、ハラハラと落ちていく様子を見た時には、さすがにそれを制作していた20年以上前の記憶がふっと心をよぎった。他に、大きな木製パネルや資材がベルトコンベアで運ばれ、強大なシュレッダー状の粉砕器でバキバキと悲鳴のような音を立てながら砕かれ、これらもストックヤードの中に消えていった。

この日は、前回のような暑さの中での作業はせずに済んだ。蝉の鳴き声も止み、空は秋の雲が姿を見せている。休憩しながら、S本氏のお母さんがこしらえてくれた小豆餡のお萩を食す。昔、母親が作ってくれた大きく素朴なお萩と同じ。美味い。もう秋の彼岸か。

そう言えば、この日はこんなものも見た。
一つは、倉庫の中の私の作品の隙間の陰にちょこんと作られたネズミの巣。かじられたスズランテープや新聞紙を巧く組み合わせて作られ、中に小さな子ネズミが3匹。そっと野外に置いて逃がしてやる。
もう一つ。母屋(倉庫)の裏の竹薮で何か音がする。人が歩いているのかと思ったらなんとイノシシ。20mほどの距離で野生のイノシシを初めて見た。これも親子連れだろうか、3頭。目が合ってもこちらにお構いなし。しばらく佇んだ後、悠然と去っていった。

掃除を終え、明りを消し戸締まりをして帰ろうとすると、暗くなった私の作品が置いてある辺りからカサカサ物音がする。子どもを気遣った母ネズミだろうか。まあ、いい。こちらもお構いなしでそのまま立ち去ることにした。
またしばらくの間、残された作品は、ほとんど野生の世界と同居しながら静かに眠りにつく。



■2009.9.13 - 16

 杜の都のフェスティバル

仙台に4日間滞在。

"MMAC(Mixed Media Art Communication) フェスティバル 2009 in 仙台"が、卸町イベント倉庫で行われた。ここはかつて紙問屋の倉庫だったという。その名の通り卸問屋の倉庫が多い地域にある。ご多分に漏れず、当地でも空き倉庫が目立ち始め、人が住めない同地域の再活性化を目指し、実験的な倉庫スペースとして活用しようとしている。地元の卸商センターなどの後援で、宮城教育大の里見まり子さんの教え子や学生達がスタッフの核となり、今まで会津や東京で行われていた同フェスが仙台で初めて開催された。

隣り合った二つの倉庫が「鳩の家」「清水
(キヨミズ)」と名づけられ、そのスペースでパフォーマンス公演、美術展示、シンポジウムが3日間にわたり行われた。参加アーティストは、様々なジャンルの日本人十数名、外国人12名(イタリア、フランス、ポーランド、グルジア、トルコ、エストニア、ドイツ、クロアチア)。

私は、ほとんど倉庫として使われていたままの状態の「清水」でインスタラクションの作品を発表。(13〜16日でインスタレーションを設営・展示、15日に同空間でアクション。)
下見が出来なかったので、現地入り後、短時間で試行錯誤しながらプランの詳細を詰めていく集中力と神経を使う作業工程となった。こういうケースではいつものことだが。

アクション(前半)
二十数個の椅子をバラバラの向きで散在させておき、観客が任意に座る。多くの人は座らず、周囲を取り囲むように立つ。上方にはモビール状のオブジェが吊るされている。
アクション(後半)
上方のオブジェから垂れ下がっている白と黒のヒモ2本を口にくわえながら、不安定な足場の上に立つ。オットット‥。

このアクションは、倉庫の最上部10mほどから吊るされた作品(モビール状に椅子とその他のオブジェが釣り合って揺れている)の下で行われたのがミソ。
私と、周囲の椅子に座った観客の間で生じた相互のアクション(インタラクション)が、そのまま口にくわえたヒモを通して吊るされたオブジェに波及し振動する。文字通りインタラクション(interaction)であり、インスタラクション(installaction)。まぎらわしいカタカナ言葉が並んでしまったが…。

外国人アーティストが見ていたせいもあるが、終了時、久しぶりに「ブラボー!」の声が彼らからかけられた。彼らはお世辞は言わない。かなりシビアな眼で作品を見ている。だから、それはそれなりに嬉しい。日本人は普通そのようなことは口に出さない。しかし、観客はさほど多くはなかったとはいえ、地元の方々もスタッフも、後で感想を聞いたら新鮮な刺激として受けとめてくれたようだ。私自身も、結果的にこの場に生じた緊張感と笑いが併存した雰囲気に、まあまあ満足できた。
翌日は、アクションの終了した状況をそのまま展示。これも短期間の美術展示としてよくやる手法。

今回参加した外国人アーティストの中には、旧知の者も初対面の者もいた。驚いたのはエストニアのヤン・トーミック。彼は、私が今夏タリンのKUMUミュージアムで見て印象に残った映像作品の作者だった。確かヴェネチア・ビエンナーレにも代表で出品していたはず。こんないい作家が来ていたのか。クロアチアのパスコ・ブルジェレスもそうらしい。他の作家も含めこのメンバー達だったらもっと広報をして、たくさんの観客に来てほしかったと感じたのは私だけではあるまい。そして、できたらもっと良いコンディションで作品を見せられたらよかった。資金や時間など状況的な困難さは承知だが、もったいない。とはいえ、関係者の方々の実現に向けての尽力と、ボランティアスタッフの献身的な協力にはこの場で感謝申しあげたい。

最終日16日には、『街のアート度について考える』というテーマでシンポジウム。
海外のアートプロジェクトの紹介を兼ねながら、仙台での今後の文化施策の展望を考えるという内容。地域の活性化のために、文化・芸術をどのように活用するかという、近年全国的に様々な機会で取り上げられる話題。
(→関連記事 2008.12.5 コミュニティーアート)
このようなテーマでは、とかく「アートの機能」や「アートの使命」、つまりアートを都市の活性化にどのように経済的効果を及ぼすものとして利用するかということに比重が置かれがちになる。しかし、一方で「アートの質」や「アートそのものの力」も問い続けられていくべきという、アーティストにとって必然的な立場からも眼を離すことはできない。これを短い時間の中で同時に語り合うのは難しい。所詮、問題提起だけに終わってしまう。その点では、隔靴掻痒
(かっかそうよう)の感は拭えなかった。

今後、仙台でこのようなアートプロジェクトがどのように続けられ展開されていくかは、まだ予断を許さない。まあ、ここで私が言う必要はないか。私としては一人のアーティストとして招待された時に、自分の問題意識を少しでも展開でき、かつ、主催者やスタッフ、観客など、関わった多くの方々に対し、手を抜くことなくきちんと全力で作品づくりに取り組んでいく姿勢を貫くことが大切な役割と心得ている。ここ仙台では、かつて自ら背負ったことのあるプロデュースやアートディレクションのような役割とは違うスタンスの関わりだった。つい、立場を超えて話を広げてしまうのも気をつけないといけない。


■2009.9.1

 で、文化政策は?

今回の、選挙によってなされた初の政権交代については、今後、どのような変化(いい意味での活性化)が起こるか否かを注視していきたい。

以前、既にパリ在住が長くなっていた大学同期の平川滋子さんに現地で聞いた話を思い出した。
政府が変わることによって官僚組織もすべて入れ変わり、文化政策も変化、つまり予算配分が変化し、アーティストの生活基盤がまったく変わってしまうことになる。だからフランスのアーティストは、皆、積極的に政治に口を挟む。というような話だった。大統領制で、日本よりはるかに大きな予算枠がどのように運用されるか問題にできる文化大国・フランスならではのことだなと、その時は何となく人ごとのように感じていた。

さあ、日本ではどうなるのだろうか。
当然というべきか、周知のように今度の選挙では文化政策など争点の片隅にも置かれなかった。「国立マンガ喫茶」と揶揄
(やゆ)された「国立メディア芸術総合センター」(アニメの殿堂)が、自民党特有のハコモノ中心行政の悪しき象徴となってしまったのは不幸なことだったと思う。あれは文化政策の内容そのものを問うのではなく、単なる税金の無駄遣いの象徴としてやり玉にあがってしまったに過ぎない。

では、実際に文化政策についてどのように語られているのか?
調べてみると、民主党は2008年1月に芸術文化政策を発表しているが、今回のマニフェスト
(抜粋)の中では「文化」の二文字は見当たらない。そこで、選挙前の6月に企業メセナ協議会が出した質問状に対する各党の回答を読む。差し障りない文言が並ぶが、微妙な差はあるものの曖昧な点が多く、政策としての具体性はないように思える。与党(だった)自民党の政策が比較的前向きな印象か。しかし、どの党からも文化政策では票が動かせないという本音が透けて見える。

民主党のウェブサイトにある政策集「INDEX2009」の中には、「伝統文化の保存・継承・振興」と並び、「芸術文化・コミュニケーション教育の充実」という項目で、以下のような文言がある。

芸術文化による社会の活力と創造的な発展を促すための法整備を検討し、演劇、音楽、舞踊、演芸、伝統芸能などの実演芸術の創造、公演、普及、人材育成を促進します。学校施設などの公共施設の活用も推進し、地域住民のニーズや取り組みに応えながら、芸術家・専門家を支援していく地域住民主導型の芸術文化政策を目指します。
また、国際化の中で、多様な価値観を持つ人々と協力、協働できる、創造性豊かな人材を育成するため、コミュニケーション教育拠点の整備とコミュニケーション教育の充実を図ります。

あれ? び、美術は?」 
ふーん、こんなものか‥。先の質問状に対する回答にもこれと同じ文言が載っている。

そういえば、文化庁の調査官をしているN氏が「美術って、業界がないんですよね。」としみじみ言っていた。(注:この文脈ではファインアートとしての美術のこと。ファッション等の各種デザイン、アニメ・漫画・ゲーム、建築などは含めていない。)確かに映画産業とか、文学(出版)、音楽、演劇・舞台などと比べようがないくらい弱小だ。美術は個人ベースの活動が多く規模が大きくなりようがない。公募団体などは、ほとんど業界とは呼べまい。画商やディーラーなどのコマーシャルな世界の住人は、文化政策に口を挟むようなタイプは少なそう。アートマネージメントやアートプロデュースに関わる一人握りの人々では、業界を形成するには至らない。大学関係者にも私が知る限りそのような問題意識を持ち、取り組める人材は少ない。

業界が形成されない美術が(美術に業界が必要か否かの議論はさておき)、殊に日本という国の政策決定(税金の投与)に関与できることはほとんどあるまい。強いていえば、民間上がりの美術館館長やアートNPOあたりの強力で自覚的な方々が音頭をとり、「地域住民のニーズや取り組みに応えながら、芸術家・専門家を支援していく地域住民主導型の芸術文化政策を目指す」という民主党に対し、地道に下からアプローチするくらいか。結局、民間の活力を期待するか、地方自治体の変わり者の首長に、何か新しいアイデアを提案し続けることくらいしか思い浮かばない‥。 でも、それでは今までと変わりない。

民主党の回答から、自民党より「まし」と言える文化政策は、残念ながら見当たらない。かえって、予算削減のかけ声とともに様々な美術関係の予算は、今よりさらにカットされるかもしれない、とすら感じるのは私だけだろうか。

こういう比較が妥当かどうかわからないが、オバマが大統領選たけなわの頃
(2008年12月)出した文化政策に関するマニフェストを知ると、民主党のいう「対等な日米関係」というキャッチフレーズが空疎に聞こえてしまうのは意地の悪い見方だろうか。まあ、あれは外交・安保に関するフレーズだからな。
日本の政治の世界では、一期目で文化事業に手を出してはならない、という鉄則があるらしい。曖昧で水ものな世界に足を取られないために。彼ら(民主党)も、重々それを承知しているのだろうか。あるいは、初めから眼を向ける余裕などないということか。
しかし、仮に、今後民主党政権が長期にわたることになったとしても、オバマのマニフェストに近づくようなものが提示できるようになるとは、残念ながら思えない。アメリカのような伝統的に小さな政府を志向する国ですら、'30 年代の不況下でルーズベルトがニューディール政策で行った芸術支援策を打ち出した。文化が国家戦略の中で重要だという認識があるのだろう。あれは善かれ悪しかれ「上から目線」の政策かもしれないが、あのくらい大胆な文化政策の転換を期待するのは(他の政党も含めても)、今のところ日本では夢のまた夢だ。

「文化」は刺身のつま程度、という本音が透けて見える限り、当面変化は期待できないだろう。いわんや、美術においては‥。
無論、これは政治家だけの問題ではなく、日本に住む我々一人一人に長いスパンの中で問いかけられるべき問題ではある。



■2009.8.20 - 23

 相対化する視点

暑いさなか、3つの展覧会を駆け足で見てまわった。

20日、世田谷美術館にてメキシコ20世紀絵画展。

私が高校時代に"美術が持つ力"に出会ったことの一つに、シケイロスの作品の迫力から受けた刺激がある。それ以来、折々に関心を払ってきた。そんなメキシコ近代美術の知られざる秀作をいくつか見た。
メキシコの近代化(1910年に始まる革命から'20-30年代にかけて、よく知られている壁画運動を通過・体験した民族性と国際性の相克と超克)を振り返ることは、日本の近代を振り返る上でも、比較対照することで様々な考えるべき材料を提供してくれる。
それは20世紀初頭において、西欧近代文明に対し自らのアイデンティティーをどのように再確認するかという、美術(芸術運動)における痛みを伴う冒険と立場を共有しているからだ。そしてメキシコのそれは、日本よりはるかに苛烈で、達成した成果も大きいと認めざるを得ない。特に、絵画における成果では。

なぜか? 様々な理由が考えられるだろうが、ここでは一つだけあげておきたい。
自らの作品・表現活動が、世界史的視点においてどのような位置と意味を持っているのかを客観的に考えられ、それを一つの使命として捉え行動した芸術家たちがメキシコでは多数輩出されたということ。
それは、今でも日本人(私を含めて)がなかなか獲得することが難しい視座だ。果たしてそのことは、環境からくるのか、そこに生きる人間からくるのか、あるいは偶然なのか? ニワトリと卵の関係のような問題が堂々巡りする。 

22日、豊田市美術館にてジュゼッペ・ペノーネ展。

彼を初めて知ったのは、昔、安斎重男さんの話を聞いた時だ。小さな枝を尖らせ画廊内外の空間に潜ませるように点在させる標界」シリーズの個展会場で、見に来てくれた安斎さんが「こんな作家もいるんだ」と、床のひび割れに楔を打ち込んでいくペノーネの作品のことを断片的に紹介してくれた。話だけだったが、似たようなことをする作家がいるのだと思った。(実際は違っていたが。)その時、1970年の東京ビエンナーレ「人間と物質」展に若きペノーネが来ていたことも聞いた。
その頃、アルテ・ポーヴェラを知っていても、その中の最年少メンバーであるペノーネについては情報も少なく、だいぶ後の1997年に豊田市美術館で日本で初めて体系的に紹介されるまで、断片的にしか作品を見る機会はなかった。J・ボイスが1984年に来日するまで、伝説化され、実見する機会がほとんどなかったのと似ている。
私の世代は、インスタレーションの可能性に目覚めた時代に活動を始めた。その先駆としてのもの派やアルテ・ポーヴェラの作家や作品群(ボイスも含め)からは、濃淡織り交ぜ様々な影響を受けたことは確かだ。

前回も今回も感じたが、彼の仕事は最初期からずっと一貫した直感(コンセプトという言葉はここでは当たらないだろう)によって支えられている。自然(植物界・鉱物界・動物界)に自らの身体(眼差しと皮膚、そして呼吸)を沿わせながら、対話・応答していく姿勢は変わらない。
日本人の自然観に近しいものも感じられないではないが、本質はギリシャ・ローマ的世界観が元にあるのだろう。特に、『手の中の幾何学』シリーズの作品にそれを強く感じた。これには魅せられた。ミクロとマクロが照応しながら、ひやっとさせる程の神秘性が作品から漂い出る。私が以前、ワークショップで漠然とやろうとしていたアイデアが、素晴らしい作品として見事に具現化されていたことにも少し驚かされた。
五感を研ぎ澄ましながら職人のように仕事を続ける、真性の詩的想像力を兼ね備えた彫刻家。彼をそう評しても間違いではあるまい。

23日、国立歴史民族博物館の企画展「日本建築は特異なのか」。

大いに参考になった。自分の制作上の思考において。
日本の固有性・独自性を、中国と韓国を相対化しながら、都市(宮城)の形成・建築・大工道具などの比較を通し検証していく内容。
私が今まで
中国や韓国の都市や建築を見て、何となく感じていたことに学問的な光が当てられ、東アジアにおける日本建築の特異性と普遍性が明らかにされていく。知る喜びを満足させてくれる展覧会。
例えば、以下のようなことに目が洗われた。
・日本の神社建築の外観と機能を持たない内部についての理由。
・中国建築におけるシンメトリーとして現れる強固な規範性。
・日本の住宅建築における玄関の持つ重要な役割、床や椅子の有無による身体所作の相違。
・住宅建築における基壇の有無、塀ないし外壁の機能の意味合いの相違点。
・技術の伝承の仕方の相違点、等々‥。

建築あるいは建築史の研究は、その土地の社会体制がもつ規制力の強弱を含んだ文化論と表裏一体の関係にある。また、建築的思考とは、細部をひとつひとつ積み上げながら構築していく壮大なシステムなのだと思う。それはそのままその社会の持つ行動様式や思考様式と直結しているという当たり前のことも気づかせてくれる。
この種の研究の内容としてはまだ端を発したばかりかもしれない。しかし、このような相対的な視点が研究者から提供されることは大いに歓迎すべき成果だ。


■2009.8.13

 ある諦念

蝉時雨の中、八王子の山深い場所にある農家で、汗まみれ・ホコリまみれになった。
野良仕事をしたのではない。そこは友人[S本]氏の実家。かつて母屋として使われていた家屋を、3人の作家が作品の保管庫として共同で借りている。この日、久しぶりに3人([S本]氏を含め4人)で、掃除、持ち出しを兼ねて一斉に作業したのだ。

私は、10年くらい前までに制作した各種のインスタレーションの資材や、ボックス型のオブジェなどを収納。[N川]氏も、立体作品の資材や骨材、あるいは組み立てられた状態の大きな構造体など。[S田]氏は、主にパネルに張られたキャンバスに描かれた200-300号の巨大な絵画など数十枚の平面作品。3人ともキャリアは長いので、かなりの物量だ。

しばらく点検を怠っていたので、厄介な状態になっていた。家屋自体、かなり朽ち始めているので、床はゆがみ、天井板は落ち、窓の隙間もある。もちろん、それを承知で3人とも借りている。
しかし、想像以上に、ホコリ・カビ・湿気、あげくの果てにはどこからか入り込んだ小動物の糞などで、梱包の外側からでも作品が痛めつけられていた。結果的に、3人とも「廃棄」と判断せざるを得ない物がかなり出た。

ボックス型のオブジェの山積み。
インスタレーションで使用した部材を箱の中に封印して収納。立ち会ってもらった人たちのサインも書かれている。40箱近くある。
とりあえず、この日はホコリ・汚れを取り、廃棄する物を一部選り分け、再カバー。上はもう天井ぎりぎり。
これと同程度の体積であと二山(ふたやま)収納されている。
そちらの方は、この日手をつけられず。

五十路のおじさんたちは、さすがにちょっと沈鬱な気分になった。
いつか再展示することもあるかもしれない、また使うことがあるかもしれない、と保管していた物たち。しかし、そのいつかは少なくとも今までは来なかった。多分、これからも。
かつて作った「血と汗と涙の結晶」が、「チリとゴミとホコリの煙」になっていくことを容認せざるを得ない。もちろん自分の作品に愛情がない訳ない。もし、これが30ー40代の年齢だったら、もう少ししぶとくあがいただろう。しかし、痛んだものを再制作したり、修復したりするのにことさら時間を費やす気力は、この歳だと湧き出ない。そんなエネルギーがあるなら、今、作りたいものを新たに作る方に力を注ぐ。あと何年これまでと同様に活動できるかわからないのだから。
我々は研究者ではない。資料として保存することの重要性は認識していても、制作者としての現実的実感の方を優先せざるを得ない。

心の中は忸怩(じくじ)たる思いも去来するが、澱(おり)が除かれたような、意外とスッキリした気持ちもする。作業の後、近くのスパで汗を流し、語り、4人同じような思いを共有したからか。



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