パフォーマンス Performance Art

アートの歴史において、この名称が自覚的に用いられ始めたのは、'60年代後半のアメリカである。コンセプチュアリズム、特に文字言語の観念性に対抗する形でボディ・アート、プロセス・アートなどとともに、'70年代になって一挙に活発化した。
元々は、20世紀初頭の未来派、ダダの挑発的で実験的な行為、バウハウスでのオスカー・シュレンマーの実験などがその源流といわれるが、'30〜'50年代にかけてのブラックマウンテンカレッジでの実験、'50年代のA・カプローに始まるハプニング、その後に続くフルクサスによる多くのイベントや、J・ボイスの一連のアクションも、この名称が成立する経緯で重要な動向にあげられる。

日本では、'70年代後半あたりからアートシーンの中でこの言葉が頻繁に使われるようになり、'80年代半ばにブームといえる活況を呈した時期があった。ヨーロッパでは、単にアクション(Action)、ライブ・アート(Live Art)、Time Based Artなどと言われることもある。インターベンション(Intervention)と称される表現行為も、パフォーマンスの表現形態の一側面である。
端的に言えば、「パフォーマンス・アート」とは、主に身体を介在させた「行為の芸術」といえる。ちなみに中国ではそのまま「行為芸術」(もともと芸術は和製漢語)と称し、アンダーグラウンドを含め盛んに行われている。

言葉上の定義はさておき、(そもそもパフォーマンスとは先に記したように言語的観念性からあえて離反しようとする運動を内在させているので、定義になじまない点は否定できない。)
現在、日本では「パフォーマンス」という言葉自体、日常的にあまりにも広範に用いられており、『パフォーマンスしている』という言い回しは、社会的にあまり良いイメージではないウソっぽいとか、見せかけだけといったようなで文脈で用いられがちなのが、誤解を招きやすくしている。

しかし、アートとしてのパフォーマンスは、この文脈からは全く隔たっていると言わなければならない。そこにはそれに関わるアーティストたちの切実なる思いが込められている。アーティスト自身がマテリアルになり、表現の主体になるということ。そして、どんな内容、メディア、素材でも自由に取り込んでしまえること。さらにどんな時間や場所も観客にも直截に関与できること。この独自の特性が、コマーシャリズムやマーケット、あるいは批評的権威などに安易に介入される余地を与えることなく、アーティストに本質的な自由を担保するのだ。

そのほか、ダンス、バレエ、舞踏などの舞台芸術(パフォーミング・アーツ)とも異なり、作者と観客の垣根がしばしば超えられたり、偶然の出来事なども取り込まれたり、その時代や社会の現実とダイレクトに関われるという特性も合わせ持つ。
つまり、「身体 - 物 - 空間 - 時間」の関係の中で、「行為」が重要なメディウムとなりながら、現実とフィクションの境界を自在に行き来する。それが可能なアートなのだ。

そう、なによりもパフォーマンス・アートとは、私たちが「生きているいま」という、その事実の圧倒的な迫力・リアリティーを、じかに伝え、共有するライブ感に最大の立脚点がある。
現在でもその実験的で革新的な役割は色あせてはいない。 (2004)

*ここでは「パフォーマンス」という見出しを掲げているが、本来は「パフォーマンス・アート」とするのが妥当である。

 ⇒ 関連文章 パフォーマンスに向けて (1986)
 ⇒ 関連文章 パフォーマンスに関する覚え書き (1988)
 ⇒ 関連文章 「こと」作りとしてのパフォーマンス・アート (1998)
 ⇒ 関連文章 日本におけるパフォーマンス・アート そのショートヒストリー (1999)

 ⇒ 丸山 常生 パフォーマンス紹介ページ

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