2012年 (1)
⇒ 活動状況           2012年(1)


■2012.2.25

  スッポンは地を這う…

前欄の続き。オープニングで行ったパフォーマンス(2月4日)について。

前夜の雪が積もった橋の上で行った。もちろん設置した作品と関わりのあるアクションである。
26名の参加作家の作品を見て回るツアーの終了間際。夕方になり次第に冷え込み、観客の方々も多少疲れが出ている状態だったが、熱心に見ていただいた。

『スッポンは地を這い、過去の記憶を呼び戻す』という少々長いタイトルをつけた。
前欄で書いたように、ジャラ(Jara)とは韓国語でスッポンのこと。この地の名前の由来となったと言われる小山の形から来ているという説を聞き、また、この土地が近年の政策(市が公園化を目指している)で自然の地形がどんどん改変されている話しも聞いた。


漢江に挟まれたジャラ島(会場は手前から三つ先の中州)と市街遠望(奥)。
右奥がスッポンに見えるという小山。氷のヒビ割れから自然にできた模様が面白い。

土地の歴史を背負い、ゆっくり地から這い出し歩むスッポンのイメージが脳裏に浮かんだ。単に人間に生き血を吸われるだけではない。水にも泥にもしたたかに生息する生物としてのスッポン。
土地の記憶へのオマージュと、日本での震災の被災者の方々へのレクイエムを込めたストーリー仕立てで、おおよそ以下に記したような10分余のパフォーマンスとなった。

・1枚の韓紙に風景の稜線を墨でドローイングをして、口にくわえながら橋の地平に目の高さを降ろし、橋に渡した対角線状のロープ(雪が積もり見えない)の上を這う。
・橋の中程で、地球儀と方位磁石を使って東側を向いて(これは福島原発の方向)立ち上がり、指差し、紙片を向ける。
・同方向の川面から延びたロープの端をもって、橋の西側の欄干に座り、思い切り引っ張る。
・欄干から背中を向けて身を迫り出し、口にくわえた紙が落下する限界まで反り返って行く…。




これは半分笑い話だが、終了後、なぜ最後に橋の下に落ちなかったのか何人かから尋ねられた。椅子から転げ落ちる私のパフォーマンスを知っている人がいたからか? 一見、氷がしっかり張っているかのように見えたこの日の川面だったしな。
そう、最後のところで落ちてしまうことも考えないではなかったが、何日もこの場所を観察していた私としては、意外と薄くて割れるかもしれない氷の上に落下し、水に浸かるまでの想定はできなかった。寒さの中での裸足と薄着で体がかじかんで、受け身も失敗するかもしれないし。
まあ、結果的に、身体まで落下する必要はなかったと思う。脚を欄干に引っかけ、かろうじて落ちないようにぎりぎりまでエビぞり状態になった私の口から紙がヒラヒラと落下することで、インスタレーションとパフォーマンスの行為が連結したと捉えられた方もいたことだろう。

このパフォーマンスではオープニングセレモニーに参加していたサムルノリの演者の方々にも飛び入りで参加していただいた。ふだんは淡々と進行する私のパフォーマンスだが、地霊を呼び覚ますような彼ら彼女達の迫力ある踊りと音とともに行ったアクションは、この寒さの中で見ていた観客の方々にとっては、ひと味違った意味も感じ取られたかもしれない。感謝。



■2012.2.24

  意識の地平面

先月から今月にかけて韓国で滞在制作した作品のタイトル。以下は、そのドローイングとショートコメント。その報告です。  ⇒ Baggat ArtExhibitionの報告はこちら (工事中)

意識の地平面

小さな橋に立ち、水面を見下ろす
土手に腰掛け、対岸を見る
水流と水位の動きが人間の意識を揺さぶる

"The horizontal plane of consciousness"

Standing on the small bridge, I look down at the surface of the water.
Sitting on the bank, I look over the opposite bank.
The movement of the water flows and makes the vibration level in the human mind.



事前に、木材や石などの自然素材はふんだんに使えると聞いていたが、それらを立体造形的に「作って置く」ことより、作品そのものの生成過程やどのように変容させていくかに、私自身の興味はあった。


初下見で撮った橋の周辺。太陽が雪雲の間からのぞく。
まず、ジャラ島全体を下見してから、小川に架かる橋の周辺にねらいを定め、構想を練り始める。
ー10〜ー20℃の気温の中、二日ほどかけてこの場所に佇み周囲の環境を観察した。

次第に面白いことに気づき始める。例えば、水流の向きが時々逆転する。これは周囲の大河の水位の変化によるのだろうと推測された。時間帯によって40〜50cm水位が上下する。その度に、気温の変化も加わり、氷が割れたり融けたり、目まぐるしく様相が変化する。


氷が割れる時の周囲に響き渡る軋むような音や、夕方、冷え込み始めると一斉に「シャワシャワッ」と氷や霜が生成される神秘的な音も初めて聞いた。また、島の中のほとんどの水辺は、氷が厚く張って歩ける状態なのだが、この小川はなぜか完全に氷結しない。(これが制作方法に影響を及ぼした。)
ここの様子、特に短時間で流動的に千変万化する川の状態は、地球の大気の動きを連想させた。

寒さにも次第に慣れ、一日中外にいてもさほど気にならなくなった。風が吹くと少々辛かったが。そうこうしながら構想を思い巡らすうち、次第にこの場所に併存する、ある層(レイヤー)を成す「仮想の面」のようなものが意識に浮上してきた。それは、中州であるジャラ島そのものの地表が形成されるに至った土砂の流れ、あるいは水面や氷そのものが成す幾重もの層の時間的な厚みのようなものとして感じられた。それが先のショートコメントの由来である。

この地の歴史的・伝承民話的な事柄もリサーチした。なるほど、イマジネーションが刺激される材料があるものだ。例えば、ジャラとはスッポンの意味で、北側にある丘の形から由来するという説。また日本統治時代に作られたダムによって川の水流が大きく変化した事、近年は公園化する造成工事で自然の地形が失われつつある事など…。さらにもう一つ重要な発見は、この地が福島第一原発とほぼ同じ緯度に位置し、橋に立って東側の川筋を向くと方位が重なる事に気がついたこと。
こうして、ほとんど無関係に思える様々な事象が折り重なりながらイマジネーションに働きかけ、オープニングに行うパフォーマンスも含めた作品の構想が固まっていった。

以下は作品の部分写真。100mほどに亘る細長いエリアなので、全体像を捉えるのは難しい。

橋から東方向の川。布が橋の下から5-60m先まで水面(氷面)下を潜って、橋と同じ高さに渡されたロープまで二股に分かれてせり上がり、結ばれる。

川の西端から対岸を臨む。布は一度小川の水面からせり上がり、小さな土手を超えて再び大河の氷の下に潜り込む。対岸には市街が見える。

橋周辺に撒かれた韓紙と墨の跡。紙の片面は墨で黒く塗られ、どちらか片方の面が見える。シャーベット状態の時に置いた時には墨が溶け出し、水流を可視化する。

撒かれた韓紙が、水位の変化で氷の下に潜り込み、透けて見える。合計50枚ほどの紙が毎日繰り返し撒かれ、氷の層が新たに形成されるたび、次第に下に潜り込んで視界から消えて行く。

西寄りの小川のほとりで橋の方を向く。ここで一度布は水面から浮上し地表に出る。

紙とロープ、墨の流れた様子。この日(2/1)の後、大雪が降り、翌朝氷点下23℃まで冷え込み、紙は氷の下に一挙に潜り込んだ。

大雪の中での、紙を橋の上から撒くショートアクション。


素材はあえて準備されていた自然物は使わず、韓紙+墨と、ロープ、布を購入。
橋の高さと同一平面を形成するように、ロープを周囲の樹木の間をジグザグ状に一定の高さで結びつける。布と紙は、風の状態や氷の生成状況を把握しながら、タイミングを見計らって水(氷)の表面や裏面に浸けたり、撒いていく。これで、水流と水位、そして氷結状態の変化によってその位置も高さ(深さ)も動いて行くことになった。つまり、
私自身が作り上げる空間というより、自然の生々滅々とした状況とのコラボレーションのような方法となった。どうなるかちょっと不安だったが。また、この川は狭いながら結構深いらしく、氷上に乗るのは危険で厄介な作業を強いられた。

今回の作品は、作業の苦労と制作時間の割に、ほとんど物量として作品が視界に捉えられない。そう言う意味では、通常の野外美術展示を期待してきた観客にとっては少々不親切だったかもしれない。これは、気象条件や制作方法がもたらした結果とはいえ、私自身にとってもやや意外な展開ではあった。
また、「紙」は東日本大震災での被災者を一部象徴している、などということを初日のパフォーマンスの時に少し説明したが、翌日帰国してしまったので、作業に追われる中で多くの方々に伝えるべき事柄を説明できなかったのが少々心残りではある。

この報告を記しながらあらためて思ったのだが、この作品(行為)は、川そのものをあたかも絵巻物のように見立て、そこに私自身と私が抱え込んでいる環境、そして当地の環境が織りな心理的・時間的な層を、空間の中に紙と布とロープでドローイングしたような事だったのかもしれない。

最後に、時間経過で記録した写真を載せておく。
目まぐるしく変化した作品と川面の様子、どう展開するか先がなかなか見通せなかった私自身の緊張と戸惑いの一端を感じていただけるだろうか。また、春になり氷が解けた時に、どのような状況になるかも想像していただけたら、と思う。


橋から東側を向く。
この流れの向きの遥か先に福島第一原発が位置する。1月27日以降、1本のロープが手前から5-60m先まで渡される。2月1日以降、ロープに加えて布も延びている。

橋から西側を向く。
こちら側は、ほぼ元の自然の地形が残されている。川は約30m先で地下パイプを通って漢江につながる。かすかに見える直線は樹間に張り渡されたロープ。途中素材を変えて張り直す。2月1日以降、斑点状に見えるのは撒かれた紙。



■2012.1.23

  冬土開花

今月25日から、韓国のソウル近郊の加平(カッピョン)で行われる野外美術展に参加します。

"Baggat Art"(場外美術)。
1981年から毎年開催され、近年は漢江の中州のようなJarasum(ジャラ島)と呼ばれる地帯で行われている。冬場の厳しい環境の中での制作が特色という。今までも何人かの日本人アーティストが参加してきたようだが、私は初参加。
韓国の野外美術展と言えば「野投(Yatoo)」が有名。こちらの方は知人も多いし、かつて関わった事もあるが、"Baggat Art"も比較的長い歴史の中で(近年運営の方法が少し変化しているようだが)、評価の高い野外美術展のようである。

かなり、厳しい寒さの中(ー10〜15℃)で、下見〜プラン策定〜制作まで、現地調達の素材によるゼロから短期間での現地制作になる。ポスターのタイトルには、『冬土開花』とある。事前の企画書には、詳細がほとんど書いていなかったので、つい最近決めたのだろう。現地の様子も僅かな写真程度しかないし、今のところ事前プランなどほとんど立てていない。

まあ、韓国流のペースは、ある程度承知しているし、体調だけはしっかり整えておけば、なんとかなるのではないかな。現地のアーティスト達との新しい出会いが楽しみである。

以下、ポスターと基本情報のみ紹介しておきます。詳しい事は、帰国後報告する事になるでしょう。


BAGGAT ART 2012  冬土開花
JARA ISLAND INTERNATIONAL BAGGAT ART EXHIBITION

準備期間:2012年1月26日〜2月3日
展示期間:2012年2月4日〜2月12日 (2月4日 Opening Party)

場所:Jara Island (Jarasum), Gapyeong Country, Gyeonggi Province
   ジャラ島 加平郡 京畿道

⇒ 展覧会 トップページ
⇒ 2012年展紹介ページ





■2012.1.19

  形式と内容の再婚

ベン・シャーン展(神奈川県立近代美術館 葉山)について。
企画の構想は10年余り前らしいが、3.11を経験し、グローバリズムの荒波の中で多くの難題を世界中が抱えている今、彼の眼差しを振り返る機会を得られたのはグッドタイミングである。


1950ー60年代、ファインアート(アヴァンギャルドではなく)以外にも、商業美術(デザイン)の分野を中心に、多くの日本の文化人達が彼の作品を愛で、影響を受けていた。そういえば、そんな名残りの一端は、私の記憶にも刻まれているように思う。
小学生の頃、教科書あるいは何かの雑誌で、あの特徴的な画面を時々目にした。むろん、名前など知らなかったが、誰が見ても彼と分かる絵だった。そう、あの絵は子どもにも親しみ深さを感じさせた。無意識のうちに自分でも同じくらいに描けそうな錯覚を覚えさせるほどに。内容はわからなくとも、目に優しいタッチやフォルムなのだ。
多分、子ども心に、柳原良平のアンクル・トリスや、久里洋二、真鍋博などのイラストと同じ地平で視界に捉えていたのかもしれない。表面的に…。


次の記憶はだいぶ飛んで、多少なりとも専門的な見方で、絵画として観察できるようになった'70年代前半の受験生時代。色面的な画面構成の巧みさと、例の「線のふるえ」に惹き付けられ、様々な作品を画集で観察、分析したものだ。その頃でも、自分にだって簡単に描けそうな印象を抱いていた。が、実際はそういかなかった。近づけそうで近づけない世界。どうしたらあのような線とフォルムが生み出せるのか、結局わからなかった。
その頃から、既に彼の作品は時代の流れの中で、人々の視界から後退していた。そして徐々に私自身からも。


前欄で記した「池袋モンパルナス」ともつながるが、今回は、
社会と芸術の関係を、自分に引きつけながら再考するのに良い機会だった。あらためて作品の内容(主題)面も含めて、じっくりとアプローチしてみた。
そこで再確認したのは、絵画(ポスターなども含む平面上での色と形の構成と言う広い意味)という形式と、そこに込められた内容(主題あるいは今風に言えばコンセプト)がきちんと表裏一体となって共存しているという当たり前のこと。
形式の新しさの追求に軸足が移っていた時代で野暮と受け取られかねない中、彼は同時代の社会問題に真摯な眼差しを向けながら、自分の内面の魂と対話し、形式と内容の両立という表現における基本中の基本を丁寧に探り続けた。そして両者の幸せな結びつきを果たすことに成功した。現在の視点から振り返れば、一度無理矢理引きはがされた夫婦を、何事もなかったように穏便に再婚させたかのように感じる。

例えば、あのドローイングを仔細に観察し、あらためて想像できたのは、本人の呼吸あるいは心拍のリズムと密接に関連している、ということ。あの線が醸し出す「ふるえ」の一つ一つ(目に見える形式)に彼の想い(目には見えない内容)が、祈りのように込められている。命のリズムとタッチのリズムが不即不離で一体化した画面である。
受験生時代、内容に深く立ち入ることをせず、形式的な表層だけを自分に取り入れようとしても無理だった事がよくわかる。うまく行かなくて当前だった。


こんな彼の一節がある。

人間や人間を取り巻く環境について、芸術が知り、かたちにするべきものはまだ多くある。こうした努力の積み重ねがヒューマニズムを復活させるだろう。完全な機械化と水素爆弾のこの時代に、私自身、この目標はもっとも重要だと感じている。 

(1950年に出版された"Just What is Realism in Art?"の中の一節)

一瞬、素朴すぎるコメントと思われるが、彼自身の歩みはかなり複雑な経路をたどった。

 …ユダヤ教徒でありながらキリスト教徒と結婚し、左翼組織に関わりながら左翼と反目し合い、社会派の具象画家と思われながら実は色彩とフォルムにおいてはむしろ抽象画に近しい… (中略) …社会問題を内部から抉り出すポスターを発表する一方で、絵画においては神話や哲学などへ傾倒… (中略) …様々な価値観が衝突する時代を生き抜く中で、より根源的な主題を探求した末の選択…   (カタログ解説より)


晩年は、版画集『一行の詩のためには…リルケ「マルテの手記」より』のシンプルな作品へ至った。

… 一行の詩のためには、あまたの都市、あまたの人々、あまたの書物を見なければならぬ。あまたの禽獣を知らねばならぬ。空飛ぶ鳥の翼を感じなければならぬし、朝開く小さな草花のうなだれた羞じらいを究めねばならぬ。まだ知らぬ国々の道。思いがけぬ邂逅。遠くから近づいてくるのが見える別離。 …

このリルケの一節も、なかなかいい。晩年のベン・シャーンが心引かれたのもうなずける。



■2012.1.4

  空いたスペース

今日が今年の始動日。

板橋区立美術館に『池袋モンパルナス展』を見に行く。別件で、再来年2014年に、当舘からある企画の相談を受けており、その事も兼ねて館長の安村さんや、企画担当の弘中さんにご挨拶。

展示は好企画だった。
1930年代〜40年代にかけて、現在の池袋駅周辺一帯に建てられたアトリエ付き住宅や酒場に集った画家、詩人、評論家、演劇関係者たち。その中の一人である詩人の小熊秀雄が残した「池袋モンパルナス」という詩とエッセイにこの名称は由来する。
その多くが反骨精神に溢れ、いわゆる不逞の輩(ふていのやから)達。パリのモンマルトルとモンパルナスの対比と同様、高台にある上野の文化的権威に対し、西の窪地の池袋界隈という逆説的矜持がその命名にも現われている。このような形で文化的にクロスオーバーした地帯は、当時、世界的にも珍しかったという。


画家達の残した作品は、オリジナリティーや様式選択の一貫性を価値基準とする西欧モダニズムの視点から見れば確かに物足りない面もある。若い頃の見方だったら、靉光や松本竣介など一部の画家たちを別にすれば、多くの画家の、セザンヌ風やフォーヴ風、そしてシュールレアリズムなどを無節操に取り入れたかのようにみえる展開は、おかしいと感じたろう。というか、そう考えていた。
しかし、当時、極端に言えばフランスやイタリアなどの芸術大国以外の国々(アジアのみならずヨーロッパの周辺国も含め)では、そのような受容と自国の文化的状況の間で、芸術家達は皆同じように葛藤していた。日本だけの現象ではなかった。
だいぶ前に中欧や北欧諸国の美術館でその国々の近代美術の展開を見て以来、次第に考え方の幅は広がって行った。そのような周縁国の芸術家は、いわゆる西欧モダニズムのエリート主義に合わせる必要などないし、それぞれのやり方で模索、展開していた。それはそれで充分に魅力的だった。

さて、今日あらためて感じたのは、そのような様式の新しさや追求といったモダニズム史観の功罪よりも、彼らの当時の社会の中での芸術家としての生き方そのもの、そしてその精神的強さである。1930年代半ば以降、社会が暗い影に覆われた中、どれだけ自分達の創造性を発揮しようと踏ん張っていたかが作品や資料から感じられた。社会の風潮は、明らかに今の時代と重なる点が多い。閉塞感が漂い、階層化とそのひずみが露呈し、人々の心の中に漠然とした不安感が広がっている。
必然的に今の状況と比較し、そして自分を省みる。彼らの芸術に対する真摯な心性や、社会に対する発信意欲(どんなに制約を受けても)、時代精神に食い下がり芸術的想像力を掘り下げて行くエネルギーは、今よりも遥かに強かったのではないか? そして、個々がバラバラにならず切磋琢磨し、想像性を刺激し合い、互いに励まし合う共同体は、現在はどこにもないのではないか? そこに大いに見習うべき点はないか?

昨年来、日本にはある大きなスペースが空いたように感じる。そう、3.11が空けた大きなギャップ。そこに人々の新たなエネルギーを注ぎ込めるチャンスが来ていると考えてみよう。そのエネルギーの一端に自分の創造性を連ねてみよう。そう年頭に記しておく。前向きに。


美術館を出た後、久しぶりに美術館周辺を2時間くらいゆっくり散策した。30年ほど前から10年間くらい、この辺りをよく制作(作品素材を拾い集める)のためフィールドワークしたものだったっけ。今日は、ある「スペース」を探して妻と歩いた。これも先に記した2014年の企画の準備作業の一つ。いずれこの件については報告する事もあるだろう。(写真は、横の丘の上から見た美術館の屋根)




Home    ⇒前ページ   ⇒このページのトップへ

Copyright (c) MARUYAMA Tokio. All rights reserved.