私の「フィールドワーク」について    (1990)

 作品のタイトルに「フィールドワーク」の語を用い始めたのは1980年のことでした。その2〜3 年前、大学で絵画を専攻していた私は、制作上のある考えから、表現された虚構としての平面上の空間よりも、自らが生活している現実的な空間をもっと見つめ直し、そこから得た実感を表現行為への足掛かりにしようとしていました。その再検討を通過しないと、キャンバスに向き合っている私自身の存在が非常に心もとないものに思えたのです。当時、“イメージ”というあやしげな魅力を放つものに、不用意に身を引き込まれることに、妙に慎重だったのです。そして、歩行中の自分の足元や街並み等を写真に撮りながら、地図にマークをほどこし、家の近辺や東京のいろいろな場所を歩き回り始めたのが、「フィールドワーク」のそもそものきっかけだったと思います。

 そこで興味を引かれたのは、映像として残された様々なものや風景だけでなく、撮影における“フレーミング”という行為そのものでした。世界を何らかの美術的な方法で枠取り(分節化、又は断層化すること)、その断片やフィルターを通して、初めて人間は世界のより豊かな相貌を、まるごと、あるいは細部にわたって隅々まで知覚したり、認識できるのではないかと考えたのです。それは、『時空間をスライスし、世界を記録する』という、私が絵画に対して感じていた、非常に素朴な“原点”とのつながりも感じさせたので、この体験と考えがその後の「フィールドワーク」の展開に少なからず影響を及ぼしていきました。そして、世界を“フレーミング”(枠取り)する様々な方法の違いが、私に絵画だけでなく、インスタレーション(この名称は日本ではまだ一般的に用いられていませんでしたが)や、パフォーマンス等いろいろな表現形式を、必然的に用いさせていったのです。

 例えば、初期の『標界』と題されたシリーズは、展示会場近辺で採取・拾得した枝や廃棄物などを、展示空間のみならず周辺の屋外空間にまで連続的に潜ませながら設置し、観客の視線を求心的に断片的細部へ向けさせ、かつ、環境の中へ遠心的に紛れ込ませようとの試みでした。別の『接界』シリーズでは、写真や土によるドゥローイングを用いた、網点分解され断層化された疑似風景とともに、実風景そのものを作品の借景として、作品空間の内へ等価に持ち込もうと試みました。都市のシステムの象徴的な場である埋め立て地を頻繁にフィールドワークし始めたのも、このシリーズの1984年頃からでした。そして近年の『土地の系』というシリーズでは、とぎれのない時間の流れを分節化し、植木鉢やドラム缶を、その発端と末端の両義的なものとして象徴化させています。その枠取られた一つ一つの世界は、そこにつながる大きな系(例えば様々な社会現象や気象とか)と、より小さな系(例えば物質の変質や植物の発芽など)を取り結ぶ、入れ子構造的な通過場として扱われています。

 以上のような、いく度かの変遷を経ながら、私は現在まで様々な環境《フィールド》を設定し、そこを歩き、いろいろな物や映像を採取し《ワーク》、その場所の目にみえないエネルギーの“流れ”や“ありか”を探ろうとしてきました。そしてやがて、こう気がつき始めたのです。それらは生命体としての人間が否応なく抱えている、存在の成立基盤であり、人間と環境との境界にめぐらされた、網目状のネットワークの作動状態のようなものだいうことを。
 本来、文化人類学者の専売特許である「フィールドワーク」という語を、無謀にも美術の分野で、勝手に流用している背景にはこのような経緯があるのです。この、歩き・採取し・探ることを、私は表現行為への動機づけとしてきました。そしてこれは私にとって、作品制作そのものでもあり、かつその為の日常的なトレーニングのようなことでもあるわけです。

      

「MARUYAMA Tokio - Field work 1988-89」 自作カタログより  1990.10月 発行


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