2007年
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■2007.12.28

高校生に「現代アートの世界」をテーマに90分ほど話す機会があった。彼・彼女らは全員1989〜90年以降の平成生まれ。彼・彼女らが育った時代背景を想像しながら、どのような切り口でアートを語ればよいのか改めて考えた。

西欧モダニズムは1990年代に構造的に大きな変質を遂げていった、という視点から言えば、彼・彼女らは、ちょうどその真っただ中で生まれ、携帯やインターネットの普及・発展と共に育ち、物心がついていったことになる。明らかに次の新世代の感覚をこれから体現していくことになる可能性を秘めた若者たちだ。そんな時代背景をリンクさせながら、様々な作例とともに自らの実感を通して語ろうと試みる。よくよく考えてみたら、このようなタイミングの高校生に語ることは、「今」だからできることで、3年くらいの時間差があったら、多分できまい。そういえば、彼・彼女らが生まれた「ある特別な時代」については、だいぶ前、私の文章の中でも触れたこともあった。

当日の内容・切り口については省くが、目的として、彼・彼女らがいずれアートの現場の当事者や応援団になっていくかもしれないと考えたら、多少の歴史的背景の知識も含めつつ、アートの面白さを心底感じてもらいたいところ。とは言え、「自由に見ていい」・「どのように感じて
良い」などと差し障りのない結論は避ける。なぜなら、毒にも薬にもならないよくありがちなこの物言いは間違いではないだろうが、現在進行形のアートのダイナミズムを感じ取ってもらうにはあまりにも迫力不足だし、無責任だから。


■2007.11.23

郡山市立美術館で「セミナー・パフォーマンス」を行う。

10月19日の欄で書いたように、これは、パフォーマンス・アートの方法論の新機軸として、私なりに名づけたもの。パフォーマンスに関するセミナーではなく、あくまでも、セミナーのような体裁のパフォーマンスである。私が観客の方々にいろいろ語りかけ、問答しながら、次々に行為を誘発し合い、数珠つながりに展開していく様子を想像していただければいいだろうか。以前から、学生・生徒向けのワークショップと、パフォーマンス公演を融合させたようなものを模索しているうちに湧いてきた発想である。アートとして尖った部分は強くはないが、現代美術とパフォーマンス・アートを親しみやすく体験してもらえたら、というところから始まっている。

この美術館は開館以来、イギリス美術を中心にコレクションしているのが特徴。そして、美術館としては珍しい、現代音楽を扱った「湯浅譲二」展を開催中。当日の参加者は、お子さんから中高生、年配の方々まで3〜40名ほど。エントランス前の広い石畳に設置されている、ここのシンボル的存在であるB・フラナガンのブロンズ彫刻〈野兎と鐘〉を利用させてもらい、屋内の窓ガラスを通した「振動としての音」を切り口に、私たちの日常的な空間感覚をとらえ直すことがテーマ。建物内外の周囲の環境を取り込みながら、ショーヴェ洞窟の人類最古の手型や、「かぐや」の月探査の画像なども織り交ぜ、参加者の方々の協力を仰ぎながら進行し、40分ほどで終了。どうやら好評だったようだ。

身の周りのスケールと方位の計測をしながら、身体スケールとそれを超えたスケールの対比を試みる。
進行のお手伝いをしてくれた女の子と一緒に、参加者の手型が描かれた紙をガラスにとめる。
B・フラナガンの彫刻と館内のガラス窓をロープでつなぎ、聴診器で音を聴く。


■2007.11.3

前回書いた、我孫子野外美術展におけるパフォーマンス。

パフォーマンスを行った「むくの木広場」は、森の中のポツンと開かれた空間。何の変哲もないが、妙に「気」がスッと落ち着く一角がある。見たことはないが、沖縄の御嶽(うたき)とはこのような所ではないかと感じた。下見の時、ここにあるベンチ・テーブルのサイズが、私が横たわって手足を広げたサイズと、まさにぴったりな事に気づいた。それが、この場での発想の発端となった。

当日は好天に恵まれ、さわやかな秋晴れとなる。開始時刻の15:00頃,折しも陽が西の方角に傾き始め、樹間の隙間から筋状の木漏れ日が、ほどよい位置に差し込んでくる。野外パフォーマンスでは、悪天候も想定しながらおおよその構想を練るが、今回のパフォーマンスは、刻々と移動する光の航跡、木立のさざめき、ハラハラと舞う落葉、前日の雨の湿気のわずかな名残りなどを取り込みながら、静かに進行した。この場で出くわした諸々の事象が、私の行為や観客の眼差しによってあらためて紡がれて行く。

刻々と移動する地面に落ちる木漏れ日に
合わせ、拾った枝の杭を刺して行く。
ベンチ・テーブルに布が敷かれ、
地図などともに、私のシルエットが描かれる。
眼差しの方位を定める


■2007.10.21

前に引き続き、もう一つ、パフォーマンス公演のお知らせ。

11月3日(土)文化の日、第10回我孫子野外美術展(11/3〜11/18)のオープニングで、パフォーマンスを行います。15:00より、布佐市民の森(むくの木広場)にて。ここは、丘陵地帯の中にある、少しくぼんだスペース。大きなむくの木が植わっている場所。地面・樹木・ベンチ・身体を関係づけるパフォーマンス。もちろん、天候や偶発的な出来事によって何かが突発的に起こることもあるかも。野外美術展の他の参加者の設置作品を見ながら、お越しいただければ幸いです。  
ss
チラシより


■2007.10.19

11月23日(金)に郡山市立美術館で行うパフォーマンスについて。

これは、当館で来月から開催される「湯浅譲二展」の関連企画で行われる予定のもの。多分、展覧会の内容とは、直接的には関係ないものになるが、一応、その準備と構想の為、ここ、ひと月ほど彼の仕事の下調べを続けるうちに、現代音楽についていろいろなことを勉強することになってしまう。彼が少し関わった50年代の「実験工房」の活動は、近年ようやく再評価され始めているようだが、それとは別に、あらためて20世紀のモダニズムを俯瞰して、現代音楽と現代美術に通底する問題を再認識する。特に、シェーンベルク以降の音楽的な理論上の実験や作品について、美術史に比較すると、ほとんど知らなかったことを思い知らされる。神話化されたJ・ケージの仕事はもちろん知っていたし、武満徹や、'70代のミニマル・ミュージックなどについても同時代的体験として残っていたものの、表現に携わる人間として、今更ながら自らの不明を恥じる。まるで、カンディンスキーや、M・デュシャン、J・ボイスなどの作品やその活動の背景について知らない美術の素人さんと同じだ。しかし、そのような一般の人たちが、現代美術についてどんな戸惑いや落差を感じるのか、あらためて想像できる反射鏡にもなる。

当日のパフォーマンスは、「セミナー・パフォーマンス」と私自身が名づけたものになる予定。ちょっと教育的な響きがするかも知れないが、そういうものではない。観客に対する語りかけと応答が含まれた、ワークショップと融合したようなパフォーマンスである。観客の方にとっては、けっこう取っつきやすいものになるだろう。「空気の振動として音の原点をとらえる」という、今回得た知見(知聴?)を元に、私なりにアート(美術)として成立しうるように展開させた「ヒトの空間認識の原点の問題」に関るテーマを考えている。


■2007. 8月後半〜(約2週間)

今年は、欧州における大きな美術イベント(Sculpture Project Munster/Documenta12/Venezia Biennale)が、同時開催されるめぐり合わせの年。現在のアートシーンを概観するのに丁度よいということで、暑いさなかドイツ〜イタリアに出かける。自分の作品発表がらみでない海外旅行は久しぶりだ。気楽な気分で周遊するも、ついつい気ぜわしく欲張って見て廻る結果に。その後の時間は、骨休めもかねてイタリア・ボローニャを拠点に、モザイクの街ラヴェンナ、コレッジオの名品が残るパルマなどを周遊してから帰国。
以下は、3つの国際展のごくごく簡単な報告と雑感。

○ミュンスター彫刻プロジェクト

ミュンスターは、7年前にパフォーマンス公演で訪れて以来2回目。雨が降ったり止んだりの天候不順で、レンタル自転車は使わず徒歩でほぼ廻りきる。第2回展の1987年以降、その後行われた他の野外彫刻展に大きな影響を及ぼしたこのプロジェクトの特徴は、10年に一度のインターバルで行われ、時間をかけ、土地や人々と関りながらプランニングされた作品群があること。のんびり歩きながら、自らにとっての川口におけるエコ・エゴプロジェクトも、つい、重ね合わせながら見てしまう。前回までの常設保存作品も含め、ここは規模に対する作品数(新作作家33名)がちょうど良い。観客が、街や自然の中をオリエンテーリングしながら、作品にアプローチしていく。そのプロセス自体が鑑賞体験として新鮮なのだ。そのあたりが、他の大規模国際展に比べて、親密感を抱きやすい理由なのだろう。

LWL州立美術館
ディレクターと作家間の事前のプラン図のやり取りなど、地味だが過去の作品も含めた資料展示が興味深かった。
A・ジークマン
子ども用遊具の廃材などによるアサンブラージュ。過剰になったパブリックアートへのシニカルな眼差し。
P・アルトハメル
延々と続くただの切り開かれた路。散歩がてら全部踏破。R・ロング的な自然や土地、または観者の知覚へのアプローチか。
S・フィリップス
川の両岸のスピーカーから、交互に流れる彼女自身によるラブソング。疲れた体に染み渡る美声。
G・ベンナー
歴史への批評性、時代への透徹した眼差し、アイデアの秀逸さなど、今回の一押しがこれ。前回のヴェネチアでも良かった。
M(マイク)・ケリー
神話を題材に、観る者の物語的な想像力が刺激される。マテリアルのチョイスや展示のセンスに、作家のサービス精神を感じる。
B・ナウマン
'77年の第1回展において未完だった構想の実現化。当時のラディカルな彫刻概念に、今は、非常に端正な古典性すら感じられる。
R・ホルン(ポスター)
ローマ時代の砦跡を利用した、第2回展以来続く、彼女の代表作品の継続。暗闇の
現場で初めて体感できるプラスαに納得。

○ドクメンタ12(カッセル)

1992年の、"ドクメンタ9"以来、久しぶりに訪れる。今回のテーマは「近代性は我々にとって過去のものか?」・「ありのままの生とは何か?」・「何がなされるべきか?」の三本立て。市内6カ所の会場にわたり、複合的・重層的にテーマを絡ませながら作品が展示されている。急ぎ足でひと通り観たが、なにしろ膨大な作品数。現場において、あまり印象に残る作品はなかったというのが正直なところ。文化的・政治的コンテクストから切り離し、作家や作品のスタイルを前面に押し出しだそうとしたキュレーションには、ある全うさも感じたが、逆に、一部の作品の良さを消してしまったり、観客の読み取り回路を閉ざしてしまった側面もかなりある。後で資料などを参照しながら記憶をひもといて、なるほどと、納得することは少なからずあったが…。「近代性は我々にとって過去のものか?」というテーマ自体に正面から向き合う必然性の少ない非西欧系の作品に、結果的に魅力を感じることが多かったことは、この問い自体を発する「我々」側の、ある種の優越感に対する皮肉にもつながるかもしれない。

documenta-Halle
内部の展示風景。手前はP・フリードルのキリンの剥製の作品。
I・マングラーノ
カラーのフィルムシートをガラス一面に張ることによる網膜的知覚の変換。
M(メリー)・ケリー
様々なメッセージが記されたフェミニズムのアート。
I ・アランベッリ
空撮された水力発電所の写真群のインスタレーション。
T・ブラウン
ぶら下がった状態の衣類と、ダンサーたちの身体のコラボレーティブ・パフォーマンス。
B・ハゾウメ
ポリタンクと鉄板でできた穴だらけの巨大船。後ろの写真との対比が良い。
A・ウェイウェイ
会場各所に置かれた中国の伝統的な椅子の群れ。彼は今回、スポットライトを浴びた。
Z・クリク
ヴィルヘルムスーエ城におけるレンブラントの隣に展示された写真。本人はどう思うだろうか?

○第52回ヴェネチアビエンナーレ

国際企画展部門は、アルセナーレと旧イタリア館。テーマは「感覚で考え、心で感じる・現在形のアート」。国別展示が、恒例のジャルディーニ内の各国パビリオンと市内各所のスペース。企画部門の旧イタリア館は、著名な巨匠の作品が多く並ぶ見応えのある展示だったが、全体的に教科書的で平穏な感じ。アルセナーレのほうは、現在性を前面に打ち出した政治性の強い作品が多い。所々に「感覚と心」に食い込む、力のある作品が散見された。国別展示ではスペイン館、カナダ館などが印象に残る。日本館の岡部さんは、一昨年のエコエゴ展に出品した、一連のシリーズ作品のヴェネチア版集大成。作品は良かったが、下部スペースがゴミ溜めのような状態になっていた日本館そのもののみすぼらしさは、相変わらずで心が痛む。
そういえば、市内を歩いていて偶然入ったシンガポールの展示で、これも昨年のエコエゴに参加してもらったジェイソン・リムとタン・ダウのインスタレーションに出会う。ジェイソンの作品は9.11以前と未来を結びつけたような、結構分かりやすい2点の力作だった。周辺企画展のB・ヴィオラとJ・ファーブルの作品もさすが。しかし、全体を通して、なんと一番記憶に残ったのは、「アルテンポ」というコレクション企画展で、薄暗い壁にほとんど目立たずに架かっていた、焼けてしまったティントレットによる肖像画の小品。作品というよりは、偶然が作り上げた黒こげのトースト状のオブジェと化しているものだったが、正に、多義的な意味においての「現在形」を体現し、かつ、時代を超越した存在感を感じた。久しぶりにすごいものに出会ってしまった。

D・アルトメイド
カナダ館の展示。剥製や鏡などを使った、お化け屋敷を彷彿とさせる逆説的な桃源郷世界。
S・ポルケ
幅7〜8m
ほどの巨大絵画の連作。さすがに力はあると思うが、こんなにマッチョになる必然性が今あるのだろうか?
E・アナツイ
ガーナ出身の作家。アルミや銅のラベルによる巨大なタペストリー。市内の屋外でも展示。
P・カネヴァーリ
ベオグラードの廃墟で、一人でドクロのボールをリフティングして遊ぶ少年の映像。つい、見入ってしまう。
C・ガイネス
9.11の説明的作品。機械仕掛けで落ちる飛行機が、また逆行して戻るのには笑ってしまう。これも作家の意図だったら、結構いけるが。
J・リム
友人のジェイソンの作品。小さなランプ照明の集合体の落下。力のあるパフォーマンスをする男だが、こんなインスタレーションもつくる。
J・ファーブル
市内のパラッツォでの個展。本人の模刻がいくつか登場。喜悲劇的な生命体の存在に対して、真摯に向き合っていると感じた。
B・ヴィオラ
教会の祭壇を効果的に使ったビデオインスタレーション。誕生と死・邂逅と別離のメタファーをシンプルながらも超絶テクニックで編集。


■2007.5.26〜6.3

ギャラリー・ブロッケンでの個展は、ビデオ作品2点、写真作品などを含む、近年続けている椅子や家具の部材を用いた、インスタラクション("Simultaneous Positioning"シリーズ作品)からなる。
作品の個々の要素はバラバラではなく、初日に行ったパフォーマンスを含め、コンセプト上でも作品の構成上においても、全てが少しずつ関係し合っている。結果的に、今までのこのシリーズの作品群が、総合化されたような呈をなしたように思う。また、今後の新たな展開のスプリングボードになるような感触を得ることができたのが、自分自身への好材料。制作や活動そして発表することは、様々に消耗することも多いが、このような感触がないと次へのエネルギーがチャージされない。
作品(部分)
作品(部分)
5/26 パフォーマンス


■2007.5.26

ss ギャラリー・ブロッケンにおいて、個展が始まる。このギャラリーは、正方形・正円・二等辺三角形を基に幾何学的に設計された特徴的な空間を持っている。そこの約8メートルの高さの天井を利用した作品展示。初日の今日はパフォーマンスを行い、それで展示のプロセスが完了されるかたちをとる。
2002年以来、久しぶりの日本での個展。皆様、どうぞお越し下さい。(東京都小金井市本町3-4-35 042-381-2723 12:00 - 19:00 JR中央線 武蔵小金井駅北口より徒歩約9分 6月3日まで。)
個展DM



■2007.5.1

「Simultaneous Positioning」- MARUYAMA Tokio Installaction Artworks 2001-2006を制作。これは2000年以降の、家屋や家具の廃材などを主に用いた、脱構築的な「インスタラクション」と称する一連の作品やパフォーマンスなどの簡易的な紹介リーフレット。(A4サイズ・4ページ・オールカラー)
36点の作品写真と、6年間に書かれた展覧会カタログなどのテキストの断章を一部掲載。このあと、5月26日から開催されるギャラリー・ブロッケン(東京 小金井市)での個展にいらした方には、無料配布します。来られない方でご希望の方には、400円(送料込み)にて郵送いたしますので、お手数ですが、メールにて直接当方までご連絡下さい。 
Mail

リーフ 表紙
   リーフ 作品写真掲載面


■2007.1.28

横浜・創造界隈「ZAIM」にて、パフォーマンス。「cord」というテーマによる、多摩美術大学情報デザイン学科情報芸術コース、サウンド&ソフトウェアアート/メディア芸術ワークショップ2、3年生による有志学外展で、ゲストアーティストとして参加。メディアアートの可能性を研究している学生たちの、年間の総決算として行われた企画。彼らのデジタルワークからは、脳細胞の非常に微細な部分に刺激を加えられる感覚がある。観客の知覚において、私のアナログ的パフォーマンスとどのように「コード化」されて受け取られただろうか?

cord DMより
      パフォーマンス

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