2008年 (3)
⇒ 活動状況           2012年(1)
2008年(3) 2008年(2) 2008年(1)


■2008.12.21

 サヴァイバル

世は「100年に一度の危機」にあるらしい。

ここ数週間で、世の中のニュース、世評など、ますます浮き足立ってきている感がある。
かつてのように、この機に乗じて「革命だ!」と叫びだす者もいるかと思いきや、グローバル資本主義が一人勝ちしてきた後の荒涼とした風景の中で、さすがにそんな時代錯誤な輩は日本ではいそうもない。でも、これから新たなサヴァイバルの時代が始まるのだろうか? 

サヴァイバルの達人とでもいえそうな、一人のアーティストの作品を見てきた。

ガイ・ベンナー (Guy Ben-Ner)。イスラエル人。
彼の作品があるというので、水戸芸術館で『ツリーハウスキット
(Treehouse Kit, 2005, インスタレーション+ビデオ)、『スティーリング・ビューティ(Stealing Beauty, 2007, ビデオ)、『ハウスホールド(House hold, 2001, ビデオ)の3作品を見た。
これらの作品は、抱腹絶倒、ユーモアにあふれたスラップスティック的(バスター・キートン風)なストーリーで仕立てられた「サヴァイバル劇」だ。家族も登場する。

『ツリーハウスキット』は、ロビンソン・クルーソーのように漂着した人間に扮する彼が、樹木に見立てた木材を、まさしく生活に使える家具(ベッドや椅子など)として再構成していく。最後のオチ(家具のガタつきを直すために、家族写真をひょいと脚の下にはさんでしまう)も効いている。

『スティーリング・ビューティ』は、世界3カ国のイケア(IKEA)のインテリアショップでゲリラ的に撮られた映像作品。値札がついた商品として陳列されている空間で、あたかも自分の家の中であるかのように過ごしながら、夫婦や親子間で、私有財産、家族、愛など普遍的な問題についてきわめて真面目に語り合う。最後に子どもが宣言するマニフェストもいい。

『ハウスホールド』は、サヴァイバルの極めつけだ。ひょんなことから二段ベッドの下部に、檻に入れられたように閉じ込められた身一つの彼が、自分の身体の様々な部位や機能を使って脱出を図る。指を切断したり、伸びた足の爪、ワキ毛までも使ってしまう。あげくの果てには精液や小便まで登場。まいった。お見事なパフォーマンス!

彼を初めて知ったのは、私が2005年にイギリスで作品を発表した時。現地の友人がヴェネチア・ビエンナーレで『ツリーハウスキット』を発表していたガイ・ベンナーを見ており、「面白いよ」とカタログで紹介してくれた。たまたま、その時に素材として使っていたのが同じ家具(IKEA!)の部材だったからなのだが、写真だけでは分からなかった。帰途、ヴェネチアに立ち寄った時は、イスラエル館が閉館中で残念ながら見られなかった。
それから何となく気になる存在だったのだが、2007年、ミュンスターの彫刻プロジェクトで見た作品、 "I'd give it to you if I could, but I borrowed it"の秀逸さに感心した。会場に実際にあるデュシャン、ピカソ、ティンゲリー、ボイスらの有名作品を部品として自転車を作ってしまい、街中を家族で走り回るというもの。サヴァイバル感は薄いが、美術史的な批評性と日常の生活感覚をユーモアで飄々と結びつけてしまう手腕は見事だった。
今回、『ツリーハウスキット』を見て、全く自分とテイストが異なるのでちょっとほっとしたが。

さて、彼の作品中のサヴァイバルが、今の「100年に一度の危機」とやらに現実的に有効かと問えば、間違いなくNO
だ。だってアートだもの。
しかし、彼の圧倒的な批評性と時代性を兼ね備えた諧謔
(かいぎゃく)の精神は、サヴァイバルに必要な何か大切なヒントを与えてくれそうだ。経済的に勝ち抜くことだけが目的ではないし。そう、負けなければ良い、というくらいの気分で想像力と知恵を働かせること。そのバイタリティーの栄養分にはなるのではないか? 何より自分の生活感と密着しているところが良い。アートは、革命を叫んだり、テロに走らなくてもこんなことができる。

放浪の民の伝統か。イスラエリー(Israeli)ならではのしたたかさとラディカルさが、笑いの後からジワーッとこみ上げてくる。



■2008.12.16

 靴の裏底

ブッシュ米大統領が、バグダッドで地元記者から靴を投げつけられる出来事があった。

レームダック化した大統領が、ボクサーよろしく巧みにダッキングしてよける姿はおかしかったが、政治的なことより、この靴を投げつける行為そのものの方に興味がわいた。国内外の様々なニュースを見ると、「靴」にまつわる文化的背景の解説がいくつか散見される。曰く…、

・中東では、足を組んだときに「靴の底」を見せることは相手を侮辱することになる。靴を投げることはさらに大きな侮辱になる。
・靴の底を見せるのは、アラブ文化における侮蔑のサイン。
・アラブ世界では、靴で人を叩いたり、投げつけることは最大の侮辱にあたる。
・イラクの文化では、靴を誰かに投げつけることは軽蔑のサインである。
・靴で誰かを叩く事はイラクでは最高の侮辱と考えられている。それはいつも地面の汚れがついている靴よりもさらに低レベルであるということ。
・イスラム教徒の間では、靴を投げつけたり犬呼ばわりすることは最大級の侮辱。

等々…。確かに、フセインの銅像が倒され引きずりまわされた時、民衆がわざわざ履いていた靴を脱いで手に持ってバシバシ叩いていたな。ちょっと奇妙な感じを受けた。あれはこういうことだったのか。

とすると、私が以前、トルコやイランで行ったパフォーマンスは、先方の人たちにどう受け取られたのだろう? と思い返してみる。 
(以下の写真)

Performance: Transitionシリーズより
〈上段 2003. Ankara, Turky photo:吉田重信〉
〈下段 2004. Tehran, Iran〉

靴磨きのように、観客の方々の靴底の汚れを削り取ったり、きれいにしたりする。(上)
あるいは靴を脱いでもらい、足を小さな地球儀の上にのせてもらう。その間、靴底の汚れをこそぎ取る。(下)

取り去った汚れの「かす」や「ちり」、あるいは靴は、その後のパフォーマンスの展開の中で、様々に変容されていく…。

当時、靴底にそんな意味があることは知らなかった。
ちょっと注意しなければならないのは、上記の参照されたニュース解説では、主語がそれぞれ異なる点。中東、アラブ文化、イスラム教徒、イラクの文化…、対象とする概念が少しずつずれている。トルコやイランは同じ中東・イスラム文化圏でも、全く異なる文化的独自性がある。言語も違う。
まだ、イラクでこのパフォーマンスはしていない…。(いつかしてみたいものだが。)

私がパフォーマンスをした二カ国では、自分で言うのも何だが、観客の方々の反応が好意的だった感触がある。私の場合、同じシリーズのパフォーマンスでも、場所や時によって異なることがほとんどだから一概に言えないが、日本より観客の反応がアクティブだった。
でも、仮に、この時の観客もイラクと同じ靴に対する文化的背景が共有されていて、写真にある靴底の行為のシーンだけピックアップしたら、遥か遠くの日本から来たアーティストが、なぜこんな自己を卑下するようなパフォーマンスをするのかと、いぶかしがった御仁も中にはおられたかもしれないな。つい、苦笑いしてしまう。

私にとって、このパフォーマンス、自分が相手に過剰にへりくだるようなねらいはない。
ふだん見えない、あるいは隠されている靴底(あるいは足の裏)が、地面や地球に接しているということそのものに焦点を当てている。そう、"人と大地のインターフェイス"としての靴底。そして、そこにこびりついた痕跡。それらが面白いと思ったのが発想の源だ。多少、「汚いもの」に対する扱いへのアイロニーがないわけではないが。
まあ、その時の観客の多くが、私の動きや姿、パフォーマンス全体の流れを見て、極端な曲解をしなかっただろうということは、今でも信じて良いと思っているが。
ただし、私は「誤解のない」ことを求めている訳ではない。そんなことはあり得ないし、かえって誤解が感性や次のコミュニケーションを触発することのほうが、アートのエッセンスとして重要だと思っている。

文化的な背景の違いによって同じ現象や行為が、違う意図やイメージで受け止められるかもしれないこと。あるいは、人類共通のコモンセンスのようなところで、誰にでもわかり合え、感じ合えるようなこと。その間を、アーティストはアートの手法の中で、意図するにせよしないにせよ、自由に行ったり来たりできてしまう。もちろんそれは見る側の受け止め方の中においても。

そのあたり、実に面白い。


■2008.12.12-13

 自然の美、あるいは形

一泊二日の小旅行。
途中、冠雪した富士山を見る。今まで間が悪いことに、ピーカン状態の富士山を間近に見ることができた機会は多くない。近くに行くと恥ずかしがり屋の富士山はいつも雲の衣装をまとってしまう。今回もそうだったが、諦めつつ少し離れたら、一挙に雲間が開いた時間帯がおとずれた。
うーん、やはりたいしたものだ。

当たり前すぎるくらいの、ふつうの写真を撮る。
でも、これで良い。こういう自然の美は、あるがままに受け入れればよい、といつの頃からか思えるようになった。これは芸術とは直接関係ないと力まずに考えられるようになったからだ。

美しいだけなら自然には及ばないという単純な事実を受け入れよう。しかし、芸術はただ単に美しいものをつくるのではない。人が「世界(自然を含めた)をこのように見ている、このように捉えた」という「眼差し(見方)」を提示する。それもできるだけ「ある驚き」を伴った眼差しを。それは芸術でしかできないこと。

絵画は眼にとって現実そのものよりも真実である。それは人間がふつうに見ているものではなく、人間が見たいものを、見るべきものを提示する。 (ゲーテ)

私の身体には、現場で直に感じた雄大な空間の広がりの感触が息づいている。この感触こそが次に何かを生み出す種になる。そう、北斎はそういったものを元にして、自らの見方を形象化したのだ。

もう一つ、自然の美。
奇石博物館で見た「黄鉄鉱」のサンプル。

これほど大きく整った正6面体の結晶も珍しい。一般的に、立(直)方体は「人工」とか「意思」の象徴だ。キューブリックが映画で形象化したモノリス(1:4:9の直方体 - 整数の二乗)はご存知の方が多いはず。逆はもちろん球体で、これは「自然」の象徴。地球しかり。細胞核しかり…。古代中国では「天円地方」という思想もあったな。

『自然界における直線』というテーマで、学生に美術の授業をしたことがある。「自然界に直線は存在するのか?」という問いかけとともに、様々な自然観察や資料のリサーチをしてもらい、その希少性と自然の造形の美しさのバリエーションを感じてもらう。時々こういうきれいな直線を発見すると、嬉しくなる。

自然がこういう立方体(四角形)を生み出し得たという驚き。
古代エジプトで、何もない砂漠の空間にピラミッドを建設した人間の想念、その欲望の源はこのような石の発見からインスパイアされたのではなかろうか。


■2008.12.10

 二重のメンタリティー

三の丸尚蔵館で開催されている「帝室技芸員と1900年パリ万国博覧会」を見る。その後、暖かい陽気に誘われ、皇居の東御苑をのんびり散歩しがてら近代美術館まで行き、「沖縄・プリズム1872-2008」も見てきた。

特に、「沖縄・プリズム1872-2008」は、社会性の強い企画で、沖縄から本土に向けての眼差しが感じられる様々な資料や作品からなる。美術館としては渋いがなかなかの好企画。

開催時期は偶然重なったのだろうが、思いがけず、両展ともおおよそ100年くらい前の当時の日本人のメンタリティーの二重性を、異なった側面から映し出しているように感じた。

前者は1900年(明治33年)のパリ万博に、日本の美術工芸の粋をアピールするべく、帝室(皇室)と宮内庁の肝いりで23名の技芸員が依頼され制作した作品の展示。しかし、幕末から明治初期の頃の万博参加と同じように伝統工芸とジャポニズムを売りにしようとしたものの、どうも既に時代の流れとズレていることに気づき始めた頃。つまり欧米列強に対しては、エキゾティシズムを売りに非近代国家を装いつづけたメンタリティーが背後にあるが、その限界が露呈し始めた時代。作品も初期の頃の出品作に比べると迫力不足。そのエキゾティシズム自体、中途半端に感じられる。

一方、後者はやはり日本が(沖縄から見た本土)が、国内や当時の植民地に対して、いかに欧米列強と同じような近代国家として高圧的にふるまったかという、逆のメンタリティーが強く感じられる内容。(全体の展示は、タイトルにあるようにもっと長い期間を射程としている。)
特に、1903年に大阪で行われた第5回内国勧業博覧会での「人類館事件」
(アイヌ、台湾、琉球、朝鮮、支那などの人々が、"展示品"として扱われるがごとくパビリオンの中で見せ物として扱われた事件。)などに象徴される「眼差し」の有り様は、その後の沖縄の受苦の歴史を形づくる一因になったのだろう。

近代国家として背伸びしようともがいている当時の日本人のメンタリティーの二重性。

これは今でも解消されず続いている。もちろん私の中にも潜んでいることを、完全に否定できる自信はない。グローバリゼーションの光と陰のコントラストがますます強くなる昨今、世界や異文化に対する日本人の立ち振る舞いは大きく揺れている。昔とさほど大きく変わっていないのではないか。今から見れば、往時を批判したりするのは容易いことだが、状況を現在に置き換えてみたときに、果たして自分はどうか? 少なくとも表現者としての立場で、何ができ、何をしないのかは、主体的に判断できるようにしていたいと思う。難しいだろうが。

タイの非常事態、西川口プロジェクトのアジア人との共生についてと、異文化との接触について、主題としてでははないが、この欄で少しふれてきた。また、つい先日、国籍法が改正された。そんなことも相まって、以上のようなことをつらつらと考えた。


■2008.12.5

 コミュニティアート

埼玉県・西川口駅の東西にある店舗(空き店舗も含む)を利用した「西川口プロジェクト」というアートイベントが行われている。「川口市民の30人に1人が外国人である」ということから、特にアジア人との共生、交流をテーマにしている。
妻がこれに参加作家として関わっており、トークイベントに顔を出してきた。そこで、「NPO法人・コミュニティアート・ふなばし」の理事長、下山浩一さんの『誰にでも分かるコミュニティアート』を聞く。様々な現場を知っている彼ならではの、コミュニティアートの歴史や状況、特徴、課題などについてコンパクトにまとめられた、文字通り“分かりやすい”状況報告だった。

「コミュニティアート」という言葉、実は私は今まで自覚的に使ったことはなかった。
これは、かねてより単に「アート・プロジェクト」とか「地域系アートプロジェクト」などと呼ばれていて、私自身は「プロジェクト型アート」と呼称することが多い。この欄で時々取りあげたこともある。
(2008.1.31・10/16-18) 
日本では '90年代くらいから徐々に活発化し、近年、全国的にますます盛んになってきている。『花盛り 街なか美術展』と、先月の読売新聞(11/27)で取りあげられもした。今年は50件以上行われ、来年も予定だけで大小合わせ全国で100件くらいあるらしい。
私が先日ときわ台で行った「つながるみどりプロジェクト」もまさしくこれ。そして私たち夫婦が2003年から2006年まで、同じ川口でオーガナイズした「Between ECO & EGO」もほぼそれと重なる。時間をさらに遡れば、'
80〜'90年代に各種のオルタナティブスペースで行った様々な自主企画展や、野外美術展などもその系譜につながるといえるだろう。下山さんによれば、第二次世界大戦後の英国が発祥といわれているらしい。

面白いと思ったことは、この「コミュニティアート」という言葉が、地域の当事者の方々からの目線で捉えられている感じがする点。間に立つプロデューサーとかディレクターの立場もこの目線に近い。公共の場で作品を設置する「パブリックアート」と呼ばれるものが「上から目線」なのと対照的。

“アートはコミュニケーションの手段である”ということを明快に割り切った上で、アートと地域環境の様々な特性をどう結びつけるかの活動がメインとなる。例えば『空洞化する中心市街地に活気を呼び込んだり、住民の結びつきを強め、街の魅力を見直すことを目的とした企画』
(読売新聞の記事より)という具合。主役はアーティストやその作品(だけ)ではない。失われつつある、あるいは失われてしまったコミュニティの再生が長いスパンで捉えた目標だという。
歴史的に俯瞰すれば、20世紀・西欧型アートが持っていた少々辟易するような「自我の限りなき主張」から、21世紀型の「柔らかき関係性の再構築」を目指すものといえるだろうか。

私がこれまで主体的に関わってきた「プロジェクト型アート」は、いきさつからして作家主導のものが多い。目線のベクトルがいささか異なる。各作家の表現性や自由度というものを最大限尊重しつつ、基本的に作品が主役で、そこから派生する社会との関係性を志向してきた。そして、それでしか成り立ち得ない可能性、あるいはその限界のようなこともしばしば感じてきた。当時から、単純に20世紀型アートの土俵で安穏と制作を続けられるわけではないと感じていたし、今でもそうだ。
美術としての専門性・現場性を踏まえる矜持は持っているが、お高くとまって上から見下ろすような目線を向けるつもりはもちろんない。

「コミュニティアート」の目線で、同じ「プロジェクト型アート」を相対化して捉えられれば、少々異なった風景が見えてくる。
当たり前の事だが、協働作業においてはそれぞれの役割というものがある。地域住民の方々、プロデューサー、行政、作家たちが、それぞれの役割・目線をはっきりと際立たせながら、関係性がうまく構築できればそのプロジェクトは質が高いものになるだろう。
乱立気味の「コミュニティアート」には、成功例もあれば失敗例も多々あるらしい。作家だったら作家としてのベクトルをしっかりと全うできるか、プロジェクト全体の主旨を踏まえた上で(異なった風景がきちんと見えて)どれだけその作品世界を開示できるかが問われて当然だ。単にわがままでとんちんかんな自己主張をしても、あるいは単なる社会奉仕活動になっても、作家として疑問符がつきまとう羽目に陥るだろう。

妻有のような、プロのプロデューサーによる国際的で大規模なもの、取手のような、大学と自治体の共催でなくても、もちろん良い。商業色一本やりに陥らずに、小粒でも質を伴う「コミュニティアート」が少しずつ成長、持続されていけば、それはそれで大いに喜ばしいことだ。

「コミュニティアート」という言葉、私もこれから折々に使う機会が増えるかもしれない。



■2008.12.2

 ジンクス

タイの政治状況の混乱(空港閉鎖状態)が、ひとまず収束に向かっているようだ。まだ、これから一波瀾二波瀾ありそうだが。

私にはちょっと変なジンクスがある。
海外で様々な事件の混乱(トラブル)の周辺にいる、あるいは、いたかもしれないのだが、その真っ只中に遭遇するのは、かろうじて回避しているというもの。
ロンドンでは9.11の煽りで空港閉鎖、北京ではSARS騒動、イスタンブールではアメリカ大使館爆破など、「もしや‥」というケースが、私の周辺で僅かな時や場所のずれで起こっている。

で、今回はタイ。
バンコクでパフォーマンスフェスに参加する予定が、ある理由でキャンセルになり、この混乱に遭うことはなかった。でも、これは運が良いという表現は当たらないだろう。後から思えば、誰しもこのくらいのことは思い当たるふしがあるはずだ。東京で歩いていて事故に遭わないからといって、運が良いとは言えないのと同じようなものだ。

とはいえ、こんなことでもジンクスとして意識しておいても問題あるまい。「君子危うきに近寄らず」で、自分の行動計画を安全策ばかりに萎縮させるより、時には、思い切って広げられるような胆力は持持ち合わせていたいものだ。いざというときに、自分の好奇心や直感に従って行動することを優先させる勇気は必要だ。根拠のない自信過剰になってはダメだけれど。

突発的なアクシデントは人生の中でいつ起きても不思議ではない、という心の構えは単に頭の中だけでなく、自分のアートや日常生活の折々に体感として再確認するような「仕掛け」として抱えていたほうが良い。パフォーマンス・アートなどは、そういう意味でまさしく予測不可能な事態を自ら取り込んでしまう「仕掛け」の最たるものだろう。

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ところで、タイのこの非常事態、日本のニュース(特にTV)では空港閉鎖についてばかりで、その背景はあまり報道されてはいない。こういうメディアのあり方も、いつの間にか日本人のメンタリティーが内向きになっていくのを助長しているのだろう。
調べてみると、どうも複雑な背景があるようだ。単なる反政府勢力(PAD)の抗議行動だけでは収まらないらしい。都市部と農村部の対立、既存勢力による利権保持と新興勢力による格差解消などといった複合的な要素が絡んでいると言われている。

どうやらここでもグローバリゼーションの光と陰、各国固有の状況に根ざした民主主義の発露のあり方の「きしみ」が起きている。日本の政治的空洞化および機能不全状態がここまで極まっている中、われわれはタイの状況を対岸の火事として、冷めた眼で見ているわけにはいくまい。基本的には日本も同じ「きしみ」の中でもがいているのだ。ひょっとするとタイよりも、もっとはるかに深刻な事態の中にわれわれはいる。

今回のケース、たとえ遭遇していたとしても、私自身の身の危険があった訳ではないだろう。(持病を抱えていた方々は、薬の手配など大変な思いをされていたようだが。)そう、個人的に単なるジンクスとして混乱に巻き込まれないで良かったと悠長に済ませられはしない。
この混乱の中で、現地の人たちやアーティストたちに、今回のことをどのように感じているのか、直接、その場で聞いてみたり、いろいろ話す機会ができなかったことを、ちょっと残念に感じているもう一人の自分がいる。



■2008.11.24

 つながるみどりプロジェクト

天気予報が当たってしまった。

前の数日間は、外散歩には絶好の小春日和
(こはるびより)が続いていたが、予報では、この日だけが雨。プロジェクトの終了予定時刻の午後3時頃から降り始めるということだったが、1時間早く降り始めた。肌寒い気温の中、行っている真っ最中だった。

この欄でも何度かお伝えしていたように、「緑化意識を高める」という目的で、参加者とともに街を歩きながらワークショップをしたりパフォーマンスをするという2時間程のプロジェクトで、様々なプランを練っていた。しかし、2−3日前に天気予報を知り、想定を多岐に広げなければならなくなり、事前の準備にけっこう神経を使った。

プランには、陽射しや風があるかないか、葉っぱの微妙な色づき加減、さらに参加者の年齢層や人数の集まり具合によって、できること・できないことがいくつも混在していた。そこから、2時間の流れをスムーズに進行させるため、状況に応じてチョイスするつもりでいた。しかし、途中で雨が降りだすという想定はなかった。とはいえ、自分でコントロールできないことについて、じたばたしても仕方がない。こういう時は、できるだけシンプルに直感的に進めることが肝要だ。

〈ときわ台駅前広場〉
ロータリーの植込み内でのショートパフォーマンスからスタート。
〈街めぐりの途中で〉
同じ場所の写真ボードを持って、景観を新鮮な視点で捉えるヒント。
〈公園にて-1〉
靴下を裏返すショートパフォーマンス。樹の姿と人の姿はひっくり返された同じ形態。
〈公園にて-2〉
葉っぱの形や色を観察しながら並べる。このあたりで雨が降り始める。
〈公園にて-3〉
鏡を使って風景を逆さに見る。不思議な空間感覚の体験。
〈つながる植木鉢-1〉
街の人たちから寄せられた植木鉢を積んでいく。
〈つながる植木鉢-2〉
植木鉢を積み上げた後、雨降る中、やじろべいを頭にのせながら、植木鉢の中の土を撒く。
〈連続して使った布〉
私の体のシルエット、参加者の手型、拾われた土・葉っぱ、植木鉢など、この日の役者が集合。
〈やじろべい〉
地球儀の上(日本の場所)におかれる。積まれた植木鉢の、軸の不安定さと相似の感覚。

結果的に、予定時間どおり無事終了。想定プランのうち3割くらいは活かせたかな。時間に押されて中途半端になったワークショップもあったが、まあ、上出来だろう。もっとシンプルにできたはずとは思うが…。

"今・ここ"を共有し、"環境に身体をさらす"というもくろみがあった今回のプランでは、まさしく偶然によって大きく左右される内容を盛り込んでしまった。もう少し予定調和的で偶然性に介入されないこともできたが、一方で、そういうのは今ひとつ面白くないと思っている自分がいる。それはもう、仕方がない。

総まとめの『つながる植木鉢』のパフォーマンス(=インスタラクション)は、午前中、空模様を心配しながらも、3時間かけてセッティング準備をしたので、多少、雨脚が強くなっても強行。
クレーン車に乗って、約5m程度の高さに積み上げる。もっと高くしたかったが、状況的にこれが限界だった。この作品、すぐ片付けに入ったため、30分ほど存在しただけ。「もったいない」という方もいらっしゃったが、これも了解済みのこと。ちょっと不思議な記憶として、心に留めてください。

最後に、今回お世話になったしゃれ街協議会の皆さん、特に、松岡希代子・延浩ご夫妻に感謝申し上げたい。また、植木鉢のセッティングは、造園会社・池田園の増田さんの身軽な身のこなしとクレーン車の絶妙なアームさばきの技がなかったら実現しなかっただろう。
どうもありがとうございました。


■2008.11.17

11月24日(月・振替休日)に行われる「つながるみどりプロジェクト」のご案内です。

短いワークショップ(案内文では観察体験と呼称。)と、ショート・パフォーマンスを取り混ぜた、2時間程のプログラムを予定しています。お子さんも含め、ご自由にご参加(無料)ください。

どうぞお越し下さい。


つながるみどり・つながるひとびと

[広報資料から抜粋]

池袋から東上線で10分ほどの「ときわ台」駅北側に広がる住宅地は、昭和11年に、官民一体となって開発された住宅地です。近年、まちなみ崩壊の危機を乗り切るため、地域の住民がさまざまな形でまちづくりに関わり始め、2007年6月に「NPO法人ときわ台しゃれ街協議会」が発足いたしました。
現在「NPO法人ときわ台しゃれ街協議会」では、「つながるみどりプロジェクト」と題し、住宅地にみどりを増やすことによって、よりよい環境とコミュニティーづくりを推進する活動を展開しております。このたび、活動の一環として、11月24日月曜日(振替休日)に、現代美術のアーティストである丸山常生さんによる、街歩きと、パフォーマンスを組み合わせたイベントを企画いたしました。見慣れた街並を、普段とは異なる視点から、再発見しながら街歩きをし、しめくくりには、「つながるみどり・つながるひとびと」というテーマのパフォーマンスを上演いたします。



『つながる植木鉢』
プラン図

日時 2008年11月24日(月、祝) 13:00〜15:00
雨天決行。ただしパフォーマンス公演は中止になることがあります。

集合 13:00 東武東上線・ときわ台駅北口駅前ロータリー噴水前 
   13:10 よりオリエンテーション。
   その後観察体験(4回 各10-15分)を行いながら、常盤台1・2丁目町内各所をめぐります。
   14:15 パフォーマンス『つながる植木鉢」(約30分)
   一丁目児童遊園にて(常盤台1丁目32番地)

解散 15:00 パフォーマンス終了後、現地にて解散
   ☆参加者の方に「ツタの鉢植え」をプレゼントします。

主催 NPO法人ときわ台しゃれ街協議会(財団法人ハウジング アンド コミュニティ財団助成事業)


■2008.11.12

 フェルメール − 空間の振動

上野にフェルメール展 〈Vermeer and the Delft Style〉(東京都美術館)と大琳派展(東京国立博物館)を見に行く。

ここでは、フェルメールについて触れてみたい。最近、巷(美術愛好家の間)では、何かとフェルメールに蘊蓄(うんちく)を傾ける向きも多いようだが、あえてそれに便乗しよう。


会場には7点の作品があった。フェルメール行脚をする人たちに倣(なら)えば、これで私が見た実作は、20点弱くらいになるだろうか。今回の作品は初期から晩期まで、様式・技法・主題ともバリエーションがあり、また最後のコーナーでは、確認されている全作品の実物大サイズがわかるような構成になっていた。それによって、彼の制作態度や方法が想像以上に幅広く感じられた。また、影響関係があったと言われるデ・ホーホの良い作品がいくつかあり、比較できたのも良かった。

今回の7作品は、まあまあというところ。新鮮に感じられた点もあったが、だいたい予想通りだった。事前の期待値を上回ることはなかった。では、私が何を求めていたのか、それを説明してみたい。

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今のところ、私にとってベストのフェルメールは、この作品である。

《手紙を書く女》
1665年
450mm×399mm
Washington D.C., National Gallery

この作品は10年程前、日本で公開された時に見た。奇跡的な絵画体験を与えてくれた数少ない1枚である。(クリックで拡大)

なぜ、この作品なのか? 

「空間が振動している」のである。

絵画の中に表現された空間が微細に振動しているように感じられるのだ。描かれた実体としての人、衣服、壁などだけでなく、画中に満ちた見えない空気の震え、あるいは気流のような気配が、非常に薄い半透明(50%の半ではなく5%くらいの半)のヴェールを通して描かれているような感じである。

この振動感、実は、私が今まで見てきた他のフェルメール作品には十分に感じられなかった。
今回の7枚の中では、ほぼ同時期に描かれたと思われる《リュートを調弦する女》に、僅かに似たような片鱗があるかどうか…、というところだった。(この作品は修復の具合で少々もっさりした空間に変わったのではないか、と直感した。軽やかな羽の震えのような振動感ではない。)

上図チラシの《手紙を書く婦人と召使い》も秀作ではあるが、ヴァルール(色の関係が作り出す位置感)が巧く決まり過ぎて、5%のヴェールが生み出す、鑑賞者の眼差しが微細にブレるような振動感は生じてはいない。(これは技術的に卓越している画家に特有で、お行儀の良い生硬な空間になってしまいがちになる。)

他の作品を例にあげると、有名なアムステルダム国立美術館の《牛乳を注ぐ女》は、厚めのタッチで、女の体や衣服、壁などが、触(さわ)れるような確かな実在感を伴いモニュメンタルに描かれている。しかし、この堂々とした存在感が、逆に振動感を全体的に響き渡らせるのを阻害する。(テーブル上のパン、籠、布あたりを注意深く見ると、例のカメラオブスキュラを利用したらしい微妙な「光斑のにじみ」が作り出す振動効果がわずかにあるが。)

また、晩年の作品(例えばロンドンのナショナルギャラリーにある《ヴァージナルの前に座る女》の2作品)は、画面に注がれる画家の眼差しの焦点が非常に切れ味を持ち、空間は澄んだ透明な光および彩度の高い色に満たされ、ストレートに伸びやかに感じられる。が、それゆえ、わずかに湿度を帯びたような震える空気は、ここでも生み出されてはいない。

この振動感を画面に定着するのは、実にフェルメール自身にとっても、恐ろしく稀(まれ)で、難しいことだったのではないだろうか。奇跡的な作用が介在する恩寵。そう、私はなぜかこの《手紙を書く女》という作品にだけそれを感じてきた。それも画面全体に響きわたる統一感をともなって。(もちろん、これは実物を見て初めて感知できる差異だ。)
今回の7作品に密かに期待していたのも、この感覚の確認だった。

私なりに、この絵の特徴をいろいろ探ってみる。

1. この時期の絵のマチエール(絵の肌合い)は、グレーズ技法(透明色の重ね)を比較的多用しているように思われる。それにより絵具(顔料と油膜層)が重層化され、さらにそれに伴い、形と形の「きわ(エッジ)」の処理が若干複雑に処理されている。
(今回出品されていた少し前の時期に描かれた《ワイングラスを持つ娘》は、同様のマチエールに近いようだが、後ろの男の空間と手前の空間の処理に破綻をきたしている部分がある。全く振動感は無い。後世の保護層の塗布か洗浄の問題かもしれない。)

2. 彼の絵画に典型的に見られる、左方の窓からの外光を想定していないと思われる。かなり暗い部屋、ひょっとして夜に近いかもしれない時間帯設定だろうか。そこに客観的な外光の利用ではなく、レンブラントが好むような輻湊(ふくそう)した光、つまり内側からにじみ出るかのような主観的な光を意識的に創っているようだ。

3. 比較的狭い範囲の空間を構図に収めており、透視図法的な奥行きの広がりを感じさせる窓枠や床のタイルなどによる、画中における斜線の構成要素がない。あるいは少ない。それとともに、描かれた壁まで画家の想定した眼差しが移動する距離が近く、遠くから覗き見たような空間ではなく、絵の中の女と共犯的で親密な空間が形成されている。(それは、彼の絵では少数派の、画中の登場人物がこちらを見ている設定となっているのも一因だ。)

これらの特徴が重なり合いながら、奇跡が生じたのではないだろうか。他の理由もまだあるかも知れない。私がここで述べていることは、テーマやモチーフの象徴的な意味(イコノロジックな)は考慮していない。画面自体を即物的に私自身が観察したことに基づいている。もちろん、研究者ではないから客観性はなく、主観的なものであることは断るまでもないが。

ちょっと専門的でマニアックな話になってしまったかもしれない。しかも長くなってきた。すみません。以下、もう少しおつきあい願いたい。

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空間の振動感。

これは私にとって、極上の「絵画体験」の一つの要素である。
いまだにこれを感受しえた絵画は数少ない。西洋絵画ではレオナルド・ダ・ビンチ、カラヴァッジオ、セザンヌ、マティス、モネ、モランディ、ジャコメッティー、F・ベーコン、M・ロスコ、そしてフェルメールくらいか。それもその画家の作品中の限られた1点だ。

専門家以外の方には、かなり分かりづらい話になってきたかもしれない。なぜマティスやロスコにそんなことが言えるのだろうかと。フェルメールの例では、現実空間のイリュージョン(リアルな空間表現)を想定しているように思われたかもしれないが、私がここでいう空間とは、あくまで絵画空間総体のことである。これは当然、マティスのような平面的な絵にも、ロスコのような抽象絵画にも存在する。それは、色、形、マチエールなどの絵画的要素、あるいは展示されている周囲の空間の特性までも関係しながら、あたかも化学反応を起こすように生成する空間なのだ。さらに、そこに心理的空間も加わることもある。
だから、上記の画家たちの作品から感じた「空間の振動」について、もし、ここに書いてきたように個別に説明するとしたら、それぞれの観点は微妙に異なってくる。でも、総合して言えるのは、私のボキャブラリーにおいては、やはり「空間の振動」という言葉に集約されてしまうし、基本的にそれだけでこと足りる。

話はそれるが、私が、学生時代になぜ絵画をメインの仕事にしなかったかと言えば、絵画以外の現代美術に引かれたことももちろんあるが、一方で、これらの天才たちの奇跡に嫉妬したからだとも思う。これは、とてもかなわないと…。まあ、ずいぶん不遜な物言いのようで恐縮してしまうが。

空間が振動する。あるいは、振動する空間。
これをさらに敷衍して言えば、絵画に限らず、いや美術を超えて、非常に現代的な「存在意義=生命観」にもつながっていく問題になるだろう。世界を知覚するという事自体が、振動とか震え、そして共振現象を誘発する出来事なのだから。
これこそ、今の私の、現実的・根源的な問題意識につながっているのだと改めて思う。それゆえ、ここまで「絵画体験」にこだわりながら振り返ってきたのだ。

まあ、この欄に書く文章としては、フェルメールから始まり、少し大風呂敷を広げすぎたようだ。
今日はここまでにしておこう。



■2008.11.6

 フルクサスの香り

午後、妻とディアナ・ラダヴィシウテ Diana Radaviciute による日本・リトアニア交流展が開催されている遊工房アートスペースに顔を出す。
同じくリトアニアのアーティスト、サウリュス・ヴァリウス Saulius Valiusによる、靉嘔 Ay-O さんとその仲間たちが、昨年ヴェネチアで行ったフルクサス・パフォーマンスの記録のスライドショーを見る。途中からだったので、後半しか聞けなかったが、フルクサス・パフォーマンスがどんなものだったのか、その一端を、靉嘔さんご自身の回想や説明を通じて感じ取れた。各アーティストのアイデアやコンセプトを尊重し、それに基づいて繰り返しが可能な行為。今まで資料では見てきたが、無味無臭で、やゝ醒めた印象が否めなかった。しかし、当事者から直接聞く言葉はやはり面白く、そこにある種の香りが帯びる。

夕方から、靉嘔さんのこれまでのリトアニアとのアートを通した交流活動に対する感謝状贈呈式で、六本木の在日大使館へ。
リトアニア文化大臣及びカウナス市長からの感謝状を、参事官のビルテさんが靉嘔さんに贈呈。さすが彼女、日本の同様な地位の人と一味違うのは、文化的な事柄に対する感度が鋭敏。彼女の挨拶の中で、杉原千畝のユダヤ人救出の有名なエピソードももちろん出るが、フルクサス(もちろん主導者のジョージ・マチューナス George Maciunas がリトアニア出身なので)やジョナス・メカス Jonas Mekas の表現に至るまで幅広く話題となる。彼らが紹介された本や、フルクサスの資料コピーも配られた。リトアニア人にとって、二人のアヴァンギャルド・アーティストのシンボリックな存在は大きい。そして、靉嘔さんのNY時代のさまざまなエピソードや、カウナス市に造られた作品ついてご本人から語られた。

ビルテさんが、Ay-Oさんへ感謝状を贈呈
会食後、Ay-Oさんを囲ん

セレモニーが一段落した後、ハイヤーで近くの料亭まで移動。少人数でささやかなディナー・パーティ。おぉ、このような所めったにくることないだろうな。そして、ここでも靉嘔さんから昔話を根掘り葉掘り聞く。これもめったにないチャンスだからね。瑛九らとのデモクラート美術家協会から、アンデパンダン時代、そしてNYの話。ジョン・ケージ、ナム・ジュン・パイク、ヨーコ、ビートニク、鈴木大拙‥、みんな眩しい話だ。時間が許せばもっともっと尋ねたいことがあったな。

ここに一つだけ記しておこう。
「フルクサスに、『オープン』という概念はキーワードとして使えるでしょうか?」
私が、漠然と感じていたことを尋ねてみた。靉嘔さんは、「いや、違うでしょうね。逆にクローズですよ。」と、ちょっと意外な返事が返ってきた。
フルクサスは、日常や芸術の境界を解消しようとしたといえる。またグループとしてはゆるやかな流動性を持っていた。しかし、特に、初期はマチューナスというオーガナイザーの元で、作品のコンセプトを何よりも重要視し、芸術家同士はお互いをきちんと峻別しようとする、そういう原則的な部分があったのではなかろうか。彼の答えからそんなことを感じた。


■2008.11.5

 弔意 − 山岸信郎さんのこと

かつて東京・神田にあった田村画廊・真木画廊の画廊主で、評論家でもあった山岸信郎さんが、昨日4日朝、逝去なさった。79歳。ここに、謹んでご冥福をお祈りいたします。

明日以降のお通夜や告別式に参列できないかもしれないと思い、今日の午後、板橋区立美術館の弘中智子さんとともに、東京・葛西の葬祭場に安置されているご遺体と対面、焼香をしてきた。弘中さんは、今月22日から始まる板橋区立美術館での企画「新人画会展」のためのリサーチで、今年8月、山岸さんのお宅でインタビューしたばかり、という縁もあってのこと。
二人で葬祭場に着くと、偶然、山本伸樹君と鉢合わせ。そういえば、彼も山岸さんにずいぶんなついて、かわいがられていたな。聞くと、一昨日、彼は入院している山岸さんを見舞い、ひょっとして最後の会話相手となったかもしれないらしい。
焼香を済ませた後、日本橋に出て三人で山岸さんをめぐる様々な話をしばらく続けた。

お若い弘中さんを相手に、往時のこと(私や山本君が関わった70年代半ばから80年代あたり)をいろいろ話しているうちに、以前と今の状況があまりにも隔たってしまったことに思いを新たにした。
昨日、美術関係者のメーリンググループに山岸さんの訃報を私が流したあと、主宰の山本育夫さんが、以下のようなレスをまわされた。
[---抜粋文 ]

画廊のスタイルも、画廊主のスタイルも、
アーティストのスタイルも変わりました。
批評のスタイルも。
この半世紀は、大変な変容の年月だったことがわかりますね。
そして、多くの人や物事が淘汰された歳月でもありました。

うん、そうだろうな。
今、山岸さんのようなスタンスで画廊を運営する人は皆無だと思う。あれほど作家の実験精神を自由に解き放ち、鼓舞し、奔放に発表させてくれた画廊を他に私は知らない。そこにはもちろん、貸画廊という功罪共にある制度が、当時、それなりに意味を持っていた時代背景がある。しかし、山岸さんご自身の強い理念がそのスタイルの基盤だったことは間違いない。多くの作家が、若い頃あそこで発表し鍛えられながら育った。(あるいは横目で通過し、あるいは去っていった。)

私は山岸さんと様々なことを話すのが好きだった。哲学、思想、政治、そして美術について。若輩者の私にも丁寧語を混ぜたぼくとつな口調で、時に酒の場ではべらんめえ調に。ある時、自分の個展で山岸さんに「丸山さん、何か新しいことを出してきたようだなぁ‥。」と、目の前の空間をうまく言葉で捉え難いようにボソッと漏らされた。嬉しかった。あそこでは、作品が売れるとか考えるべくもなかった。

今の状況から見れば、それをイノセントな「お尻の青さ」の顕われと捉える向きもあろう。そう、
いつの間にか、そんな作家の育ち方・育てられ方は淘汰されたのだ。今はもっと戦略的・効果的に、"アーティスト"自身が世に出るルートを見つけ、あるいは用意され、画廊などに限らず売り込んでいく。それが当たり前の時代になった。

いや、私は当時をノスタルジックに回想するつもりはない。

在野(地理的にも神田だし)において批判精神を失うことなく、自らの方法を貫いた山岸さんの生き方に、実は、様々な限界もまとわりついていたことは事実だろう。それは、その後90年代にかけて、この業界の推移を振り返れば、それなりの理由があったことがわかる。
美術館の購入を当て込んだ新しいスタイルの画商の台頭。一般から乖離しがちだった美術表現がサブカルチャー化し、平易な日常的な地平に降りてきたこと。保守回帰の風潮とともに商品として成立する絵画や彫刻の復活。批評家が現場から遠ざかり、総合的なオピニオンリーダーの座から降りた、または消えたこと。発表の現場が画廊や美術館からオルタナティブな場所に拡散していったこと。等々‥。
それらは相対的に山岸さんのスタイルを野暮ったく見せ、反故にしていった。換言すれば、そう感じさせるように時の流れが覆いかぶさっていった。そして彼は画廊を閉じた。(他の個人的な理由があったことは承知しているが。)

その後、時は経ち、今となる。
今後も、時代はさらに次々と巡っていくだろう。現に、リーマンブラザーズの破綻とともに起こった金融危機の影響で、アートバブルのような様相はみるみるうちに変化しつつある。今、先端でかっこいいと思われている、あるいは当たり前と思われているスタイルもいずれ変化し、ほとんどが淘汰されるだろう。
その時、山岸さんのような絶対的少数派でありながらぶれない骨太な批判精神、これが眩しく感じられるような時代が再び訪れることになっても全く不思議ではない。



■2008.11.2

 『つながるみどり』プロジェクト(その後)

「つながるみどり」プロジェクトが、11月24日(振替休日)に行われる。8/30と9/30にも、これについて書いたが、その後、少しずつプランを詰めていた。この間、植物について(特にその種類や名称など)少し調べものをしたり、何回か現場をフィルドワークしながらイメージを膨らませたりしていたが、今日の打ち合わせで8割方内容が固まる。ワークショップとパフォーマンスの二本立ての2時間程の内容である。

実は、今月の中旬、タイで1週間程パフォーマンスフェスティバルに参加する予定だった。それが諸事情により、2日前急きょキャンセルとなった。原因はこちらにではなく先方にある。残念だが、まあ仕方ない。タイ行きと、このプロジェクトの準備が、スケジュール的にちょっときついかなという感じもあったので、前向きにじっくりとこのプロジェクトの方に集中しよう。

広報資料的なものの用意、準備作業は、今日の打ち合わせでほぼ完了。ただ、行う詳細について、まだ自分の中でもう少し検討して詰めなければならないことがある。たかが2時間のこととはいえ、そのもう少しがなかなか難しい。

詳細については、後日、またご案内する予定です。



■2008.10.29

 腰痛と幼虫に要注意

妻、丸山芳子の作品展示の手伝いで、搬入・設置作業をする。

一つは、彼女が参加する野外アート展「トロールの森2008」のための設置。東京・杉並の善福寺公園の池のほとりの地面に穴を掘り、テーブル状の作品を据え付ける作業。
ここのところ何かと忙しく、けっこう疲労がたまっていて朝から腰のあたりがピリピリ。(これ長年の持病。)腰をかばいながらの穴掘りや、しゃがみこんでの不自然な体勢の作業は、思ったより重労働となった。ツルハシやシャベルの作業一つひとつの動きに気を使うので、かえって疲れやすく、時間がかかる。

作業中、土を掘り返していると、地中にはったクヌギの細い根の周囲から何匹もの蝉の幼虫が現れた。今夏地表に出そこなったのか来夏出るのだろうか、茶色くかなり大きなものから、5ミリ程の白い小さなものまでいろいろ。眠りを覚まされモソモソ動いている。へーっ、こんな風に地中で過ごしていたのか。小さなのは今年孵って地面に潜ったばかりの幼虫か。だいぶ先に見るべき陽射しを当ててしまったな。ごめん。そっとわきの地面に埋め戻す。最近発表した作品に、蝉の抜け殻と羽を用いたことがあった。これは蝉の時間と地球の時間(気象による作用)のサイクルの関係を考えたことが制作動機の一つになったもの。偶然だが、これも何かの縁か。

設置作業の方は、好天気に恵まれたこともあり、夕方には無事完了。腰はなんとか保った。幼虫の方は大丈夫だったかな。

もう一つの作業は、遊工房アートスペースにおける、日本・リトアニア交流展「層のはざまに浮かぶかたち」での、彼女と友人ディアナ・ラダヴィシウテによる二人展の作品搬入。これは素材の搬入のみの手伝い。終了後、遊工房の村田さんから味噌味の水団(すいとん)をいただく。昼食抜きで疲れた体に染み渡る美味さ。どうもごちそうさまでした。

展覧会は、どちらも11月3日(日)から11月23日(日)までの会期。見に行ってください。




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