2009年 (4)
⇒ 活動状況           2012年(1)
2009年(4) 2009年(3) 2009年(2) 2009年(1)


■2009.12.15 - 19

 釜山・パフォーマンスフェスティバル

韓国・釜山(プサン)でのフェスティバルへ。
3週間程前、知人から参加打診を受け、慌ただしく日程を調整し作品を発表してきた。韓国での発表は4回目。自分の都合で全期間の滞在はできなかったが、発表以外にも多くのスケジュールが組まれフリータイムもほとんどなく、あっという間の5日間となった。

"2nd International Performance Art in Busan"
(2009.12/15〜22 左写真は案内状より)
オーガナイザーのSung baeg(ソンベ)は、彫刻出身のインスタレーション作家でありパフォーマンスアーティスト。"Agit"というインディ・カルチャー・アートスペース(と称している)のアート部門のディレクターもしている。まだ30代の若さだが、リーダーシップがあり周囲からの人望も厚い男だ。

"Agit"は日本語の「アジト
(隠れ家・指令所)」と同じ意味(元々英語だが)。地元プサンのアート・アソシエーションから助成金を受け、アートだけでなく音楽やその他の文化活動も4年前から行われている。元幼稚園の建物を改装し、ギャラリーの他にアトリエや録音スタジオ、宿泊施設なども付帯されているアーティスト・イン・レジデンス型の施設。といっても日本のようにソフィスティケートされてはおらず、ゴチャゴチャした感じではある。
プサンビエンナーレや海岸野外展示など大規模なイベントがある観光地プサンだが、ここはその名の通りインディながら様々な若者たちが出入りし、交流活動の拠点の一つとなっている。韓国内ではこのような施設は5カ所程度あるらしい。

昨年の1回目は、海外から多くの参加者を招いたが運営が何かと大変だったようだ。今年は助成金削減もあり日本からの3名のアーティスト(磯安代・勝木繁昌・私)と韓国人アーティスト4名を含めた少人数による開催。(内容は展示として参加者のインスタレーションと昨年のアーカイブで8日間開催。その内メインのパフォーマンス・デイが12/18-19日の2日間。)

同時期にソウルでもパフォーマンス・フェスティバル(Performance Art Network ASIA)が開催されていた。黒田オサムさんや霜田さんらが参加している。そちらはもう少し規模が大きい。プサンの方はどちらかというとその方法や運営に批判的な見方をしているようだ。ソンベと話しながら「エスタブリッシュ」ではなく、もっとアーティスト同士の深い関わりと「インターメディア(ジャンルを超えた)」を目指している印象を受けた。今年のテーマも「コミュニケーション」となっている。

先に入っていた勝木君の話で、彼が寝ていた部屋の布団にいつの間にやら知らない若者(アジトのメンバーの一人)が寝ていてびっくりしたという話が笑わせる。もちろん悪気はなく、これが韓国の人たちの人間関係の距離感。家族的な関係をベースに、手作り型のアットホームなフェスティバルを作ろうとしているソンベには、今回、短いながらもいろいろ世話になった。

⇒ 「IPIB (International Performance art In Busan) の5日間」 へ (工事中)

--------------------------------------------------------

18日のパフォーマンス・デイのオープニングは私からスタート。2日前から寒気が入り晴れていてもかなり冷え込み、アジトのギャラリー内にもストーブが入れられた。これがゴーッと大きな音を出す代物。準備や観客の出入りの状況も刻々と変わりコントロールされていないので、ほとんど組み立てをプランせずに開始する。アクションしながら全体的な状況を俯瞰する「もうひとつの眼」を効かせながら、直感的に次のアクションへと繋いでいく。結果的に、私にしては肉体的激しさが前面に出た20分程のパフォーマンスとなった。

次に、Yi hyok bal(イ・ヒョクバル)。彼はアーティストであるとともに「Korian Performance Art 1967-2005」という韓国のパフォーマンス・アートの歴史を振り返った立派な資料集の著者で、評論もしている。私の直後だったのでほとんど見られなかったのが残念。静かで知的なパフォーマンスをしたように見受けられた。

続いて、勝木繁昌、A-young、Sung baeg+磯安代と、計5つのプログラムがこの日行われた。最後、プログラムにWorkshopと書いてあったので何をするかと思ったら、取材用のインタビューをした後、皆で飲めや歌えの宴会となってしまった。本当はもう少し互いの作品について話すつもりのはずだったんじゃないの? 翌日も続くプログラムがあるのに…。その後、お決まりの二次会に氷点下の中を歩いて焼き肉屋へとなだれ込む。以前と変わらぬ韓国人のつき合いの濃密さと、マッコリの美味さを味わいながら「大韓民国(テーハミングック)」の熱気を全身に浴びる。

近年、当地の若者の気質もだいぶ変わったと聞いていたが、それでも日本より遥かに外に向うエネルギーのパワーは強い。この地のコミュニケーションとは、杓子定規で形式的なセレモニーではなく、基本的に気持ちの誠実さと触れ合いが大前提となっているわけだ。

 MARUYAMA Tokio 

コンクリート床に入ったヒビ割れをディス・コミュニケーションの顕われと見立て、それを線でつないでいく行為から始まる。
椅子や定規がつけられたオブジェが天井から吊るされ、バランスとアンバランスを行き来しながら、身体・空間・時間の伸縮が暗示されるようなアクションをする。ちょっと激しく動き、頭と小指を少々痛めてしまった

 A-young 

赤い線を筆で自らにボディペイントし、観客にもドローイングを広げていく。観客もまた彼の体にドローイングをを往復させる。
相互に伝わる触覚性と視覚性をベースに、シンプルだがコミュニケーションというテーマが明快なパフォーマンス。以前は全裸だったが、彼女に猛反対され今回はやめたらしい。寒かったしね。

 Sung baeg & Yasuyo Iso 

白い服をまとった日韓の二人によるコラボレーション。
テラコッタの頭像作品を巡りながら、土・植物・安代さんの出す音を絡ませながらそれぞれのアクションを関連させる。
写真は頭像の開口部に、口に含んだ土を撒いているソンベ。「蝶」の出現が最近の彼のキー・コンセプトで、今回も壁に展示された平面作品と関係づけられたアクションだった。



■2009.12.7

 写真が幸福だった時代

20世紀を通じて独自の存在を保ってきた「写真」というメディアは、絵画や彫刻といった従来のハイ・アートとしての芸術形式の側に仲間入りしたといえるだろう。先週、東京都写真美術館でのS・サルガドと、木村伊兵衛とアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真群を見て、こんな思いがよぎった。まあ、既に当たり前のことだが。

なぜあらためてそんなことを感じたかというと、木村伊兵衛とブレッソンの珍しいコンタクトシート(ベタ焼きプリント)を見た時のこと…。
コンタクトシートは通
(つう)の人が見ると興味深い。注意深く観察すると、写真家の現場の息づかいや感情の起伏の推移が感じられる。それはルネサンス絵画の技法や隠された主題を読み解きながら見るのとほとんど同じ感覚なのだ。もしくは骨董を鑑定するような態度に近い。そしてシートにマークされチョイスされた1枚のプリント写真は、単なる現実の再現や報道的客観的事実ではなく、写真家によって再構成されたリアリティーが内在されるという訳だ。

ブレッソンは有名な『決定的瞬間』で次のようにいう。

「自分自身」を発見することは、我々を形づくるとともに我々が影響を与える「外部の世界」の発見と同時に起こるのだと思われる。バランスはふたつの世界で打ち立てられなければならない。ひとつは我々の心の内部の世界、もうひとつは我々の外側に広がる世界である。その絶え間ない相互的プロセスの結果として、ふたつの世界はひとつの世界を形成する。我々が伝達すべきなのはまさにこの世界なのである。

決定的瞬間』とは単なる客観的事実の切り取りではなく、写真家としての一人の人間の内面世界と、外界の世界が共鳴し合う瞬間のことを指すのだろう。そこで限りある生を生きる人間がシャッターを切る。単なる事実としての瞬間が、写真家の意思の力によって大きな時間の流れへ矢を射るように解き放たれる。瞬間が永遠と切り結ばれる。

なんと真っ当な芸術的営為だろう。
なるほど、
サルガドの写真はバロック絵画を彷彿とさせるかのようにダイナミックな構成だし、木村伊兵衛のそれは、彼が撮った鏑木清方のような肩の力が抜けた淡白な構成なき構成だ。写真が自ずと近代芸術に仲間入りする過程を歩んだ幸福な時代とともにある紙焼きの写真…。

21世紀の最初のディケード(10年)が過ぎつつある現在、既に"情報のデジタル化"は、私たちの第二の皮膚のようにぴったり付着した。そこでは写真は、"情報の単なる一つのかたち"に過ぎなくなった。無数の人々によって携帯カメラで撮影され、あるいは街中の無人カメラが時々犯罪のニュースとともに顕わにされる。それらは、無数で匿名の眼差しが無秩序に生産する単なる一コマの静止画、断片でしかない。

人間の存在自体もそのような写真の変遷とともに変化を余儀なくされようとしている。「ふたつの世界がひとつの世界を形成する」ことは、今を生きる写真家にはひどく困難なのである。かつてのようなバランスでは。



■2009.12.2

 文化政策のゆくえ

不遜で申し訳ないことを言ってしまったと反省している。

今日、平山郁夫氏が亡くなったニュースを聞いて思った。前回書いた同期会で「事業仕分け」の文化関連の予算削減に対し、「平山郁夫が出てきて言わないでどうする。何しているんだ。」などと友人にさんざん息巻いたばかりだったから。しょせん居酒屋での会話とはいえ、お恥ずかしい限りだ。
ノーベル賞受賞者やオリンピックメダリストたちがメディアでアピールするのに、文化あるいは美術関係者で「押しの効く」影響力で世間に知らしめる力を持つのは、平山氏以外にないと思っていた。闘病中だったとは‥。慎んでご冥福をお祈りします。

氏の絵画上の業績についての評価はさておき、広い国際的視野、行動力、政治的影響力は美術界では希有な存在だった。これは多くの人が認めざるを得ないだろう。「文化」がなし崩し的に切り捨てられようとしている事態の中、ご自身の「不在」というかたちで、美術界に「さあ、君たちだったらどうするんだ」と問いかけられたと解釈したい。

前に書いた危惧 が予想通りに進行している。行政刷新会議の「事業仕分け」の文化関連では、次のような結果 (→評価結果へ)が出た。
大きな所では二つ。
・芸術家の国際交流 予算要求の縮減
・芸術文化振興基金 予算要求の圧倒的縮減
これらは私自身も助成金を受けて活動したことがある。だからといって個人的な損得勘定で反対するつもりは毛頭ない。日本の財政状況や経済状況が衰弱しているおり、事業仕分けの必要性は理解するし支持したい。ただ、その個別の事業の内容を吟味するというより、天下り先の独法を狙い撃ちするという裏の意図が先行しているような気がする。
来年の予算編成のために、急いで患部を切り取り致命的な後遺症を日本の芸術文化に残しかねないと感じるのは私だけではあるまい。それは基礎科学やスポーツと同じだろう。経済効率でのみ、まず優先順位をつけてしまおうという狭量で強引な態度が目立っている。これって友愛?



■2009.11.30

 同期会

藝大時代の同期会(1976年入学)が、フランス在住の平川滋子さんの一時帰国にかこつけて行われた。

個展会場などで個別に会う機会はたまにあるが、大勢で会う機会(今回は16名)はめったにない。今年から油画科の助教授になったO・Junが、根津にある居酒屋を予約。こういう時、きちんと連絡役・幹事役をしてくれる面々がいてくれるのは有り難い。そうでないとこういう集いは出来ないからね。この日取りが決まった後で、渡辺好明君の急逝という事態があった。お別れの会(11/22)の様子を、工藤君(工藤晴也・壁画研究室教授)が報告してくれた。今日のメンバーの多くが参列できなかったようだから。(私も作品の搬出で顔を出せなかった)

何はともあれ、皆それぞれの立場で活動を続けており、それぞれの話を聞くのは面白い。もちろん昔話も。話し方も気分も学生時代に戻る。菅野さん(菅野秀明・知る人ぞ知るハードコアなボンデージ写真家)などは還暦を超えても、とつとつとした話しっぷりは昔のままだ。

大学に入るまではそれなりに苦労したり紆余曲折が誰もがあった。普通の大学よりもその過程はバラエティーに富んでいる。そうして運良く入学(45倍なので、単に実力だけでない運が作用することもある)した当時は、まだどうなるか分からないただの青二才だった。それが今、渡辺君の死ということもはさみ(故人になった同期生は、知る限りで55名中3名)、それぞれの表現の現場を見出し歩んでいる様子を確認し合うと、その後の歳月の重みと枝分かれした道の広がりの多様さを感じないではいられない。

自分には、これからやること、できることはまだまだある。



■2009.11.25

 映像表現の成熟度

ヨコハマ国際映像祭2009。
現代美術、メディアアート、アニメーション、映画、写真、そしてジャンルを超えたコミュニケーションツールとしての映像全般を扱ったフェスティバルというふれこみ。会期終了間際のこの日は平日。見られたのは新港ピアとBankART Studio NYKの二会場。

新港ピア会場は情けなくなるほど閑古鳥が鳴いていた。広報も解りづらく会場の作りも散漫。企画コンセプトが空回りしているのは明らか。映像にほとんど眼がいかず印象に残らず。
トラブル(開幕直前の主要出品作家兼ディレクターの突然の出品辞退)も生じ、いろいろ考えるべきこともあったようだがここでは触れない。

欲張りな企画コンセプトと関係なく、アートとしての映像表現という観点でのみ見ると、BankART会場の方には作品として見ごたえがあるものがあった。
10年くらい前から国際展はじめ多くの企画展で映像作品が数多くあふれ出し、見ることを妙に強いられる感覚があった。そしてその大半がつまらない。個展などだったら良いが、大規模展でのそのような経験はうんざりしていた。(今春の東京国立近代美術館の「ヴィデオを待ちながら 映像・60年代から今日へ」は好企画だったが。)だから今回もこのような総花的な映像祭にあまり期待はしていなかった。しかし、いい意味で期待は裏切られた。

クリスチャン・マークレーの "Video Quartet"は、膨大な数の映画からの引用によって、視覚と聴覚をシンクロさせる精緻に作り込まれた作品。映像ならではの訴求力があり、モンタージュの巧みさに感心した。
アルフレッド・ジャーの "The Sound of Sirence"もさすが。作品の構造体そのものに存在感があり、その中で味わう映像体験そのものが重層的な深いメッセージ性を秘めている。
初めて見た山川冬樹も、自分の生い立ちならではの特別な素材に助けられているものの、豊かな表現力を感じさせた。
その他にも眼を引かれたものがいくつかあった。案の定、見終わるのに時間がかかったが、この長さはけっして苦痛とならなかった。

それらを振り返れば、けっして斬新な表現方法や実験的なテクノロジーが展開されていた訳ではない。見せ方としては比較的オーソドックスなものが多かった。しかしシンプルに作品として成熟された質の高い表現が実現されていた。映像そのものとともに、空間性が加味されたものを私は好む。つまり映像体験の現場性(臨場感)が作品に構造化されているものがアートとして必要だと思う。そうでなければYouTubeなどの動画サイトなどで見れば充分。そう言う意味では展示の仕方の巧拙によって同じ作品でも全く印象が変わることがある。

テクノロジーの発達と寄り添いながら歩んだこの分野は、ハード面の目新しさや実験のみに偏りがちで、ソフト面(技術・方法・内容の折り合い)がどうしても等閑
(なおざり)になりがち。ビル・ヴィオラのようにすでに巨匠となった作家もいるが、この分野の成熟度を感じさせる成果がだいぶ見られるようになったことをあらためて実感した。

 --------------------------------------------------------

話題は変わるが、アルフレッド・ジャーについて話を戻すと、彼の今回の作品のテーマになったのは、1994年のピュリッツアー賞を受賞したケヴィン・カーターの写真「ハゲワシと少女」。
当時、この写真が世界中に発信された時のインパクトと、その後のいきさつ(彼の自殺)はいまだに記憶に強く残っている。私は当時、美術史の授業で3年間程これを取りあげ、メディア・リテラシーについてのレポートを学生たちに書いてもらったことがある。様々なことを考えさせる出来事だった。
この作品でジャーはカーターの生い立ちを詳しく追いながら、現在、例の写真が、ある企業の管理の元で著作権保護されていることを明らかにする。ジャーナリズムと資本主義をめぐる矛盾や現実を、アートらしいセンスと強い身体性を伴った方法で表現した。
彼は私と同年。すでに世界で評価されるようになって長い。どうやら問題意識も重なっている所があるように思う。以前から気になる作家の一人だ。



■2009.11.22 - 23

 アーティスト・トーク

作品の撤収で会津まで往復。
23日午後からのアーティスト・トークに参加する。最終日のこの日に集ったアーティストたちが館内を順にめぐり、自作の前で語る。私はカタログや館内の掲示されたコメントとは違う観点で、制作上で細かな工夫した点などについて述べた。(コメントは読めば分かるし)
限られた短い時間の中で一般の観客の方々に語るのは難しい。少々、尻切れとんぼの状態で終了。

単に、ものを持ち込むのではなく、常設展示と作品を絡ませるタイプの作品の場合、作家の説明によってその作品の勘所や、気づかなかった点が見えてくるものがある。例えば、岡部昌生さんのフラッタージュの展示などは、周囲の常設作品の構造や内容、配置なども考慮した上でインスタレーションをしているので、ご本人の説明を聞かないとその構成のねらいはまず分からない。このような企画は最終日ではなく、会期の前半に行うべきだった。




自作の前でトーク

撤収はいつものことながらセッティングの時間に比べ、あっけない程の短時間(1時間ちょっと)で終了。その後、積み込みを終えクロージングパーティーの会場へ。伊藤公象さんや港千尋さんなどふだん滅多に会えない方々と初めてお会いし歓談する。アルコールも我慢し途中で切り上げ、車で深夜の帰京となった。

今回のような博物館の常設展示と現代美術のコラボレーションのような企画は、他の参加作家の中でも様々な刺激が得られるということで好評だった。私もそう感じた。歴史や時間と対峙しながら作品を構想する面白さ。港さんも最近のポンピドーセンターのA・ブルトンの資料展示の例などを挙げ、このような見せ方の可能性と面白さを語っていた。日本では出来そうでなかなか出来ないこのような試み。携わった関係者は気苦労が多かったと聞くが、今後もこのような形の企画が続けられることを望む。


■2009.11.20

 マルチプル能力

この日、ヒルサイドプラザで行われたヴィータウタス・ランズベルギスによるレクチャー・コンサート「チュルリョーニスの時代」に顔を出した。

彼の名を覚えておられる方も多いだろう。1989年、リトアニアがソ連邦から独立した時の最高会議の議長を務めた人物。ポーランドのワレサやチェコのハヴェル等とともに、旧東欧諸国が民主化した時の指導者として世界に名を馳せた。
彼自身は音楽家でもあり、リトアニアの国民的芸術家であるチュルリョーニス(作曲家・画家・文筆家・写真家)の研究者でもある。政治の世界のリーダーにそのような文化人がなるという組み合わせに、日本の政治風土に慣れた身に取ってはちょっとびっくりさせられたものだ。小泉純一郎がプレスリーを歌うのとは訳が違う。

演奏後、ピアノの前でチュルリョーニスの絵画について語るランズベルギス氏。

この日の氏のピアノ演奏(チュルリョーニスのピアノ曲など)は時々良さも感じたが、全体的に私の耳には今ひとつ冴えは感じられなかった。
しかし、語り(沼野充義氏との対談)からは言葉の一つ一つに説得力を感じた。芸樹家、学者、政治家、それぞれの顔を阿修羅像のように持ち合わせるマルチ人間。


マルチプルな能力というものについて少々考えさせられた。

ランズベルギス自身は、政治家と音楽家の両立について問われ、共通するものがあると答える。
人のために行うこと。人に伝える使命を持っていること。人の話を丁寧に聞くことが必要であること。それは共同体における共通の意識に向けてオーケストラの指揮をとるようなものだ。共同体に向けてのメッセンジャー(伝道師)であることにおいて変わりはない。そしてそのために精神の自由さが必要だという。

チュルリョーニスも作曲と絵画の制作を高いレベルで両立させた芸術家だった。(日本ではあまり知られていないが、1992年にセゾン美術館で紹介されている。)
19世紀末から20世紀初頭の変動が激しかった時代を生きた。その後のアヴァンギャルドの時代の変遷を知った現在の眼と耳で彼の作品をとらえると、最前線でなかったのは確か。しかし、その時代の深層的な部分で共鳴する何かを見出している。作品はみなどこかで見たり聞いたりした印象を受けるが、後に生まれる時代精神や、様式、方法を既に孕んでいる。どこにも属していないがどこにもつながっている作品。マルチな才能が生み出した不思議な作品世界である。

共同体における共通意識と精神の自由さ。この一見相反することを両立させるヒントを彼らに見た。



Home    ⇒前ページ  ⇒次ページ    ⇒このページのトップへ

Copyright (c) MARUYAMA Tokio. All rights reserved.