2010年 (1)
⇒ 活動状況           2012年(1)
2010年(3) 2010年(2) 2010年(1)


■2010.4.28

  二足歩行の苛烈さ

まだ寒暖の差が大きい日が断続的に続いている。腰痛の具合は一進一退。マッサージを2回ほど受けた。まだ、雨が降り冷え込むと疼き出し、ビクビクしながら立ち上がったり、歩いたりしている。リフォーム準備のための片づけもなかなか進展しない。

7-8年ほど前だったが、ひどい症状の時があった。
安静にして、仰向けで寝ていた状態からピクリとも動けない。トイレに行きたいのだが、膝を曲げることも体をひねることもできない。首も持ち上げられない。体の全身の部位、筋肉の一つ一つと対話しながら、どこをどの程度、どのような順番で動かせば問題なく立ち上げれるか試行錯誤し続けた。20分ほどかかってようやく体を反転(たったそれだけ!)させることができた。

大学時代、三木成夫先生の「生物」の授業で「個体発生は系統発生を繰り返す
(ヘッケル)」という例の有名なテーゼを聞いた。それは『ヒトは胎児の時、僅か1週間ほどの間になんと5億年の進化の時間を通過するんですねぇ‥』という先生の名口調とともに記憶されている。
反転した後、四つん這いになって芋虫のようにそろそろと這っていったあの動きは、大袈裟に言えば、水生動物が上陸した時のような進化の過程をなぞったような気分だった。

重力と拮抗する二足歩行は、ヒトにとって精妙かつ極めて大変な労力を要する行為なのだった。



■2010.4.18

  Greening

鎌倉のポラリス☆ジ・アートステージに、スー・グリアソン(Su Griason)の展覧会、"Greening"を見に行く。


今まで何人かの方々から案内を頂いていたが、ここを訪れたのは今回初めて。北鎌倉駅から歩いて、個人住宅の間の私道のような細い坂道を上っていく。途中で迷ってしまったが、待ち合わせを約束していたエサシトモコさんと、偶然同行していた徳永雅之・高木佳代子夫妻(お二人も以前からの知人)らと会って、道案内してもらう。

ギャラリーは、小高く緑深い丘にポツンと建っていた。こじんまりした建築だが、オーナーの十倉宗晴氏のこだわりが隅々にまで息づいている。コンクリートの基礎が直接ギャラリーの床となり、そこから黒塗りの柱が立ち上がっている。半地下と二階があり、広いガラスの開口部から見える外の風景が美しい。まさに周囲の自然との流動感がある空間である。


丘下から見上げた建築

陽射しが透過するガラス越しに見た会場の様子と、十倉氏
スーの展示は、細かい内容は省くが、野外と屋内、素材もメディアも複合的に展開され、彼女らしい知的なセンスが息づいていた。(彼女には、2005年に"Look-Look"という企画でスコットランドで大いに世話になったことがあり、元々、作品をよく知っている経緯がある。)
木の芽時のこの日は、よい天気に恵まれ、木々の新緑が陽射しに美しく映え、ギャラリーの空間と相俟って"Greening"のコンセプトが丁度相応しく感じられるタイミングだった。


■2010.4.17

  気候変動と移動圧力

昨晩、季節外れの雪が降った。東京では41年ぶりらしい。
ここのところ、日ごとに寒気と暖気が激しく入れ替わっている。外に出る時は、冬服と春服を交互に着替えなければならない。持病の腰痛が、前触れもなくシクシク出てくる。気温や気候の変化は、人の気分や行動の仕方も変えてしまう。

腰をいたわりながら、以前から繰り返し気にしている問題について振り返ってみた。

『約10-15万年前にアフリカで誕生したホモ・サピエンスは、その後5万年ほど前にアフリカを出た。その後ユーラシア大陸をどのように移動していったのか? それは何によって突き動かされたのか?』(興味ない方にはえらく大げさな問題だ。)

以下は、現在の一般的な説。

気候変動により環境変化が起こり、食料確保のための狩りの範囲が変わった。ステップツンドラ地帯では温暖化と寒冷化が繰り返し起こり、ポンプのようにユーラシア大陸を北へ東へ何世代にもわたって、動物を追う小部族の人々を未踏の地へと少しずつ誘(いざな)った。
更新世末期には、地続きのベーリング海峡(ベーリンジア)を通過し、今のアメリカ大陸へ渡った部族もいた。完新世になると、気候が急速に温暖化し始める。環境の変化への対策として、それまでの狩猟生活から採集生活に切り替え、やがて一つの土地に定住して農業をはじめた。その後、灌漑設備や都市を築くようになり、気候が少しばかり悪化しても乗り切れるようになった。こうして現在われわれが文明と呼ぶものが始まった…。

その後、予測不可能な気候変動と関わりながら様々な文明が築かれ、そして滅んでいった。生物としての宿命で、増え続けた人口がその土地の環境収容能力をいずれ超える日がやってくる。そこで気候が大きく変動すると、もはや対応しきれず、多くの人は死に絶え、生き残った者は各地へ離散していく。ここには生物が「移動する」ことと「留(とど)まる」ことの葛藤が秘められている。

一方で、近年の気候学の成果は、長期にわたる地球温暖化時代となったここ1万5千年間は、多少の変動期があったにせよ、過去40万年間で最も安定した時代だったこと、別けても、20世紀は稀に見る気候に恵まれた時期だったことを教えてくれる。近代文明は大いなる幸運の元で育まれてきたのだ。それを当たり前に感じてしまっている現代人の「41年ぶりの雪」などいうとらえ方は、実に近視眼的なわけだ。

しかし、実際、われわれは大きな変化の端緒にいるのかもしれない。
数万年単位では地球は再び寒冷化する予想がある。そう、気候の変動は人類が温室効果ガスを増やそうが増やすまいが、いずれ必ず起こる。しかし、われわれの文明が存続する想像が及ぶ数百年単位では、どっちに転ぶかまだわからない。悲しいかな、われわれの多くは自分か次世代の生きる範囲のせいぜい数十年くらい先のことを考えるまでが関の山。いや10年先でも難しい。せめてこの短期間では、気候の変化による文明の壊滅的崩壊が始まらないでほしいと願う。

今日では近隣の土地には隣人が暮らしている。もう、われわれには数万年前のように他の場所に移動するという選択肢はない。略奪戦争を肯定するか、宇宙開発に本格的に乗り出さない限りは。
このような想像力と問題意識は、往々にして社会を再編成し、技術革新をうながす役目を果たすことにもなるはずだ。当面、こちらに向かっていくことを目指していくほかない。腰痛をかかえるもろい人体のような、グローバル化した後戻りできない現代文明の元で。



■2010.4.6

  花見日和

桜は散り初めがいい。
麗らかな日和、近くの
石神井川沿いの桜並木を見に行った。花吹雪とはいかないまでも、この日はちょうどいい按配だった。

小さな橋上で周囲をゆっくり見渡す。両岸から大きくせり出した桜花の枝と川の流れに沿って、眼差しが奥へと伸展する。川の水面を見下ろせば、水の流れに乗る花弁の蛇行する動きや、川底と重なり合って揺らめく空の反映によって、眼差しに速度と深度が加わる。

私にとって、これはちょっと刺激的なシチュエーションだ。一人のアーティストとして、自己の眼差しの在処
(ありか)と行方(ゆくえ)を視覚形式的に探る上で、興味深い感覚が誘発されるからだ。眼差しが身の周りの空間を縦横無尽に行きつ戻りつ移動する。五感が活性化され、身体全体が環境にとけ込む。


ちょっと解りづらい記述になったかもしれない。細かい事はここでは省くが、この複合的な感覚から多くの偉大なアーティストがインスパイアされてきたと私は思っている。
例えば、レオナルド
(左図_老人と水)、モネ、ジャコメッティ、ベーコン…、あるいは広重や北斎も。そのほか数え上げればきりがない。



そんな事をつらつらと考えながら歩いていたら、
高校時代の旧友とばったり出くわした。
下田哲也。漢方と西洋医学の統合を目指している精神科医だ。彼はクラスでもトップクラスの秀才、こちらはサッカーと美術くらいが取り柄の凡才だった。

昔話をしながら近況も話していたら、彼がこんなことを言った。
「医学はサイエンスだが、医療はアートなんだ。」
なるほどね。人の身体や精神をどのようにとらえるかによって、スタンスが変わってくる訳だ。けっこう話しが合うかもね。
「今度、ゆっくり飲もうや」。桜舞い散るなか、握手して別れた。


■2010.3.27-30

  ガリバー×旅行記

ガリバーさん(SHUZO AZUCHI GULLIVER・安土修三)の展覧会 "EX-SIGN"に、28日のアーティスト・トークに合わせて滋賀県立近代美術館まで行く。
これまで断片的にしか知らなかったが、私はガリバーさんの活動(日本の美術村社会とは関係が薄い)と表現世界を気に入っている。「身体」にまつわる表現に関わる私にとって、外すことの出来ない良き先輩アーティストの一人である。

ガリバーさんといえば、何より"Body Contract "(肉体契約)が有名だが、日本では知る人ぞ知るくらいのところで留まっている。なぜか近年になっても、あまりメジャーな扱いは受けてこなかったのが不思議なくらい。('60-'70年代当時はだいぶメディアでの取りあげられたらしいが。)

トークは、「〜って訳ではないんだけど…」と断定口調を避けながら、気ままに飄々と2時間にわたって語り続けた。けっこう大規模な展示と併せ、これまでの多岐にわたる活動が見えてきた。そこには、早熟な表現の現れと、M・デュシャンやフルクサスなど、欧米のコンセプチュアルなアートの流れを受けながら、自分流に融通無碍に展開してきた独自の世界があった。


何よりも、みずみずしい眼差しで世界を見つめながら、独自の言い回しで世界に問いを投げかけ続ける言葉のセンスに感心した。本質的に哲学的な詩的感性が根っこにあるのだろう。例えば…、

「世界観って、世界と交わした契約書の束のこと」
「滝に打たれるように肉体に打たれる。自分の体に打たれるって、まともに生きるってことなんじゃないか」
「ぼくは、美術の歴史をレファランスしてニッチなフィールドを見つけることはしない」

なんて、なかなかいい。他にもアーティストらしいユニークな言い回しが随所に現れる。本人は苦手って言ってたが、軽妙な語り口でとても面白かった。トーク後、挨拶したら「丸山さん、おいくつだっけ? 54? これからがいい仕事ができるよ。」

そうか。印象的な刺激を頂戴した。


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その後、時間の余裕があり、3日ほど滋賀〜奈良地方を気ままに旅する。

28日は、美術館に近い石山寺で広大な伽藍を散策。国宝の多宝塔と本堂を拝観。
多宝塔の、建築としてのプロポーションのシャープさや屋根の曲線の美しさは確かに見応えがある。本堂の、本尊と参拝者を結ぶ『結縁
(けちえん)の綱』は、一種のインスタレーションとして捉えると、私の作品に用いられるヒモやロープが思い起こされるものだった。離れたもの同士の見えない関係が意識化されるという点で。

翌29日、甲賀市経由で南下。明日香村へ向う。途中、聖林寺で『十一面観音像』を拝観。
ここは30年以上前、大学の古美術研究旅行で訪れた。あの時は、今のようにガラスで仕切られていなかったはずだ。堂内で二日酔いのI君が屁をこいた記憶
(笑)とともに、この像の脇から見上げた姿が印象に残っていた。ずいぶん失礼な出会いだったものだ。今回は、正面でしかもガラスの反射が気になったとはいえじっくり鑑賞。ほとんど直立不動の姿に微妙な重心の移動が仕組まれており、彫刻師の腕にあらためて感心させられた。

この日は肌寒く、雪まじりの天気となった。天香久山を通過し、石舞台、文武天皇陵、高松塚古墳、天武持統天皇陵、橘寺などを廻る。
この辺りについては、寺社を見るだけでなく、地域全体の空間、例えば古墳や山(ご神体)などの方位関係に興味が湧く。当時の人々がこの土地でどのような風景の元で古代国家の礎を築いていったのか、その感覚を想像するのは、現在の都市生活の感覚と照らし合わせる上でも興味深い。今では鄙
(ひな)びた風景はほとんど失われているが、高松塚周辺の風景には、当時の面影が彷彿とさせられるものがあった。

その後、さらに足を延ばし、吉野を通り五條市まで行き市内散策。
途中立ち寄った吉野神宮は、明治22年に明治政府が維新の正統的裏づけのため、建武中興の後醍醐天皇を祭神として祀った官弊大社である。肌寒く広い境内には誰もいなかった。神官もいない。空っぽであっけらかんとした空間。国家意思による、伝統と設計思想の融合。ここは奇妙なほどそれが際立って感じられた。日本的な空白の味というところか。

石山寺 多宝塔 石山寺本堂 結縁の綱  高松塚周辺の風景 吉野神宮
丹生川上神社の階段構造 移設された古い天川弁財天の社 金峯山寺 蔵王堂 吉野 一目千本の風景


翌30日、天気は回復。天川村へ向う。丹生川上神社(下社)と天河弁財天へ詣でる。
丹生川上神社は、拝殿から本殿に向って背後の山上に向って伸びていく階段構造。水神信仰の痕跡を感じさせ、古来の様式を遺している。
天河弁財天はいつか訪れたいと思っていた。25年程前、スピリチュアル・スポットとしてちょっとしたブームになった。社殿はそのころ建て替えられたらしく新しい。かつての古い社が移設された場所を探しながらしばらく歩く。ここでも誰とも会わない。山深い周囲の木立や川のせせらぎからそこはかとなく「気」が発信されているように感じた。

午後には陽気も暖かくなった。前日に比べ桜の開花が少し進んだかもと期待を込め、再び吉野山へ向う。中千本の吉水神社や、下千本から金峯山寺まで「一目千本」の風景を眺めながら歩く。まだ二分咲き程度だったが、人出は少なく却って良かった。役行者や南朝ゆかりの土地の雰囲気も充分味わえたし。

これで、以前訪れた熊野、高野山などと合わせ、紀伊山地の霊場をおおよそ一巡したことになる。あ、もちろん伊勢も含めて。
ずっと前から抱いていた疑問、なぜこの地域が古代国家成立時の重要スポットとなったのか? その過程でどのように古人
(いにしえびと)が、その信仰とともに空間を形成(都市や建築を含めた造形感覚の発露)していったことになったのか? 今回の吉野めぐりで、自分なりの答えがおぼろげながらに見えてきたような気がする。



■2010.3.23

  国民性?

昨晩深夜、古いつき合いの韓国人アーティストから突然電話がかかってきた。

○○○デス」
「やー、久しぶり」
「マルヤマサン レジデンス キマセンカ?」
「え?」
「5ガツ」
「えーっ、どういうこと?」
△△市カラ オカネデマス。タイザイシテ サクヒンツクッテクダサイ」

と言う具合に、一挙に話しが本題に入る。
こちらが問い返しながら少しずつ状況が見えてくるが、最後までどんなスペースでどんな内容なのかもわからずじまい。結局「今から5月に一ヶ月の滞在は無理だよ」と断った。

彼は知的で礼儀正しい男である。ただ、ブロークンな英語で話した方が良いことを、わざわざ片言の日本語で話そうとするから、かえって分かりづらくなる。
とはいえ、さすが韓国の人は行動が先にくると思った。ちょっと荒っぽいけれど。日本人だともう少し段取りを考えながらTPOや5W1Hを踏まえ、きちんと分かりやすく説明しようとする。それをすっ飛ばしてくる。ビジネスの世界ではどうか知らないが、かの地のアーティストはこういうタイプがけっこういる。昨年滞在したプサンでも同じような経験を何度かした。(もちろん、クールで論理的なアーティストもいる。)

この直球のスピード感、時と場合によるが私は嫌いではない。
回りくどく、口先で抽象的なことを言うだけで行動が伴わない人間が、私の身近にもけっこういる。電話一本ですむことをメールで遠回しにコンタクトしたり、体を張って動かず遅々として事が進まない、なんてこともある。そういう人よりはつき合いやすいし、結果的にうまくコミュニケーションが進展したり、良い関係が成立することがしばしばある。さすがに今回はOKできなかったが、自分にたまたま時間の余裕があったらどっちにころんだか分からない。

最近、ビジネスやスポーツの世界でも、韓国勢に日本勢が圧倒されることが多い。第三世界の人たちとのつき合いでは、このような韓国流のパトスがほとばしる関係の方がうまくことが多いのは何となく腑に落ちる。一概に国民性と決めつけるのもどうかとは思うが、明治時代の日本人はこんなタイプの人が多かったのではないか、などと想像する。今の日本人が、変化球(根まわし)や決断の先延ばしに慣れきっているのだろう。



■2010.3.19-20

  仙台再訪

仙台に行ってきた。昨秋以来。
今回は骨休めを兼ね、ラドン温泉につかり一泊。節々にガタが来つつある体調は少しは整ったかな? そしてもう一つの目的、宮城県立美術館での高山登展(+田中 泯パフォーマンス公演)に行く。

野外、屋内各所に展開された集大成的展示。整然とした美しさを感じさせる空間だった。しかし、昔の作品を見ている者にとっては、高山さんの作品の枕木に付着したタールの臭気は、素材感と表裏一体で忘れ難いものがある。今回それはない。美術館での展示であり、観客の健康上の問題からも無理だったらしい。
枕木に潜むある種の不穏な気配は後退し、大きく広がる空間構成(映像の組み合わせもある)の巧みさが前景化する。また、細部に施されたパラフィンや錆びなど素材上の扱いも、絵画的な出自であることを納得させる。自分もそうだからなおさら感じるのかもしれない。
臭気や粗暴さが消えた枕木群は、斎藤義重の複合体シリーズを一見思い起こさせた。ダイナミックだが端正な計算された構成。が、それは「黒く太い角材の構成」という表層的な視覚性においてのみ。斎藤
(ぎじゅうさん)のぎりぎりまでニュートラルな状態にまで還元された素材に対し、高山さん独自の物語性が微かにでも付着した枕木や他の素材から漂い出る気配は、当然のことながら異る。

会場風景 田中 泯 パフォーマンス公演


田中 泯の公演を見るのは久しぶり。会場内にはいつのまにやら2−300人の観客が立ち見状態で密集。無料とはいえすごい人気。近年の、映画や大河ドラマでの怪演が効いている?
'70年代の半ば頃見た、泯さんの『原−存在感』むき出しの身体(踊り)から、現在は日常の中の生活者のそれへと様変わりして見えた。会場で会った宮城教育大の里見先生も同じ感想を言っていた。それは裸から着衣への変化からだけであるまい。身体の微細な動き、空間への沿わせ方は以前とほとんど変わりないように感じたから、多分、泯さんが自らの身体に歳相応に真正面からつき合ってきた時間の帰結なのだろう。
しかし、やはり舞踊(あるいは舞踏)の身体ではある。私のパフォーマンス観から言えば、あれをパフォーマンス公演と呼ぶのは美術館側の慣習化した広報的言い回しに過ぎない。踊りが始まる前に、どのように空間の中を動くのか私なりに想像していたら、実際ほとんどそうなってしまった。私にとっては予定調和的で安穏とした時間が流れた40分間だった。無論これはこれで悪くはない。でも舞踊公演とそのまま自然に呼んだほうが良かったのでは。まあ、これは私だけの些末なこだわりに過ぎないが。



■2010.3.15

  リフォーム計画

私は築30年以上の二階建て日本家屋に暮らしている。

今年に入ってから、しばらく展覧会の予定も空くし、リフォームがてら少々手直ししようと妻と相談。いずれ来る地震対策で屋根瓦を軽くしたり、部屋の間取りを変更し、天井も出来るだけ高くしたらどうかと計画を立てた。
先日、屋根瓦を点検したら、雀が瓦の隙間に巣を作った跡を発見。(右上写真) びっくりした。そう言えばだいぶ前にゴソゴソと音がしてたな。よくあることらしい。10年程前、外壁の全面塗装で点検した時は問題なかったのだが‥。他にもそこかしこに痛んでいる箇所が見つかった。
また、二階天井裏に点検口から潜り込み、どのくらい天井を高くできるか事前調査。
(右下写真) 屋根裏に上棟式の時に大工が残した当時の飾り物を発見。なかなかやるじゃないか。断熱効果の問題もあり、野路板ぎりぎりまで上げるのは無理だが、梁をむき出しにしてしまえば、現在より40センチ程度は高くできるかもしれないと推測。


仕方ない。この機に思い切って大掛かりにリフォームしなければならないとあらめて決断。しかし、資金は? ……。 本当は時間がたっぷりあれば、自分で全てやってしまいたいくらい。しかし構造にまで手をつけるとなると、体力的にも技術的にも無理がある。多少経費をかけても業者に大部分を頼むことになる。

そんな経緯も手伝い、いろいろと建築の構造などをおさらいした。自分で全て自由に作品として住空間を構想・造設できたらどんなに面白いだろうかと想像が広がる。建築家に嫉妬する? いや、そんなことはない。何でもそうだろうが、プロとして仕事をしたら簡単に「楽しい」だのとは言ってはいられまい。まあ、少々お気軽に考えていられるから面白いと感じられる。それにそうなったら私の場合、自ら壊し、造りながら少しずつ構想を進めていくことに比重が移っていってしまうだろう。建築家のように事前にしっかり設計し、大工のように手際良く作業とはいくまい。やはり時間的に無理だ。

自分の住空間そのものを作品として造り上げていきたいという欲求は、モノ作りの一番深い部分と関わっている。そんなことに憧れを抱く人はけっこういる。理想宮のシュバルやワッツタワーのサイモン・ロディアのようなところまではちょっと大変だろうが。

これから、だいぶ溜まった収納物を思い切って整理・廃棄していく必要がある。倉庫にあるものも昨年だいぶ処分したしな。難しいが思い切った決断をしなければならない。



■2010.3.10

  展覧会・備忘録

しばらく更新が滞ってしまった。

この2ヶ月間に見たいくつかの展覧会についてメモ代わりに記しておく。こうしないと日々の忙しさに紛れ次第に記憶が薄れていってしまう。日常生活の中で視覚体験の占める割合は、他の感覚に比べてきわめて大きく全体の8〜7割程と言われるが、逆に記憶に引っかからず素通りしてしまう事もまた大きい。つくり手側(発表する側)の身ではちょっと困った事かもしれないが、見る側の身になっている時はそんなものだ。

善かれ悪しかれ、いろいろなものを「見る」ことによって何かが身体記憶の中に沈潜し、それが自分に何らかの作用を及ぼすことがある。そう、「世界」の中に身体として住み込んでいるのが現象学の教えるところでもある。


さて、順不同の
「数行感想」の羅列で恐縮だが…。

1月13日 『R・ホルン(Rebecca Horn)』 東京都現代美術館
言わずと知れたパフォーマティブなインスタレーションをつくるビッグネームの先行世代作家。
これだけまとまって見るのは初めて。詩的言語から出てくるイマジネーションが形成する、装置としての作品。それらは羽・鉛筆・電流(など様々‥)という中間項が魅力的に駆使されながら、身体の接触感覚に対する「恐れと希求」へのアンビバレンツな状態を見る者の感覚に蜂起させる。良い展覧会だったと思う。しかし、別フロアの映像作品を全て見る事が困難なプログラムは、もうちょっとなんとかならなかったものか。一回では時間的にとても無理だった。

1月17日 『NO MAN'S LAND』 在日フランス大使館
まっとうなディレクター不在のごちゃ混ぜ企画。
一つ一つの作品に責任はないと思うが、学園祭風のノリの空間全体に、見る者の感性は覚醒することなく麻痺し、疲弊させられる。「無人地帯」ならぬ「集団押しかけアートパーク」と化していた。大使館内見物の野次馬(私もその一人だった)でごったがえした喧噪
の中で、丁寧に作品も見るつもりで入ってしまった自らを責めることに。あれでは「いいな」と感じた作品も浮かばれまい。

2月3日 『W・ケントリッジ(William Kentridge)』 東京国立近代美術館
今まで何回この館内に入ったか数えきれないが、一つの企画展示空間にこれほど長く滞在したことも珍しい。ボリューム満載の映像作品。
彼は私と同世代。以前から国際展などでも目立つ存在であり、手法のオリジナリティーとテーマの秀逸さから良い作家だと感じていた。視覚のしくみの機能にも興味を抱いて仕事をしていることを今回初めて知った。なるほど、あの膨大なドローイングアニメーションの背後にはこのようなモチベーションの裏づけもあったのかと感心。しかし、展示の後半(次から次へと出てくる長時間の映像!)は、疲れてほとんど飛ばし見となってしまった。それでも優に3時間以上は経っていたな。


映像の展覧会が矢継ぎ早に行われている。最近見たものでも、昨年11月の『横浜国際映像祭』、
1月横浜美術館で『束芋』、2月写真美術館で『第2回恵比寿映像祭』など。まだ未見だが、水戸芸術館で『REFLECTION/映像がみせる“もう一つの世界”』も開催中。美術展でも今や映像作品がない方が珍しいくらい。つい先日も、大学同期のO・JUNが出品している『ARTIST FAILE 2010』(国立新美術館)や、宮島葉一が出品している『作家はつぶやく』(佐倉市立美術館)に映像作品(彼らでなく他作家の)があった。
映像作品の「見せ方」は、小規模の個展はともかく大規模展では実に難しいと感じる。これは既に'90年代後半に国際展で映像作品が一挙に増え始めてから言われ続けてきたことでもある。見る側にとっては時間のコントロールが全くできない苦行の連続に成りかねない。出来ることは、最後まで見るか途中で迷わず立ち去るかだ。むろん、作品の質、出来不出来による差が大きいのだが、「見せ方」そのものが左右することが甚だしい。ディレクターやキュレーターのさらなる工夫に期待するほかない。


1月17日 『縄文はいつから!? 』1万5千年前に何が起こったか 国立歴史民族博物館
1月29日 国宝『土偶展』 東京国立博物館
この2つは、個人的な学問的興味から見に行く。
気候変動と文明の衰亡の関係は興味深いものがある。縄文期の日本列島もご多分にもれない。最新の研究成果では、日本最古の土器の出現は1万6000年程前まで遡るようだ。最終氷期の終わり頃に起こった急激な温暖化期(1万5000年前、なんと50年間で7〜8℃も上昇!)以前だ。その後再び寒冷化(1万3000年前)していく環境を縄文人は生き抜く。彼らが列島に拡散し定住化していく過程での土器の形の変化(丸底から平底へ)が面白い。
一番興味を引いたのは、約1万5000〜2000年前の上黒岩遺跡(愛媛)から出土した石偶(線刻礫)群。掌に入る程の扁平な石に細かな線画が施されている。説明では女性の髪、乳房、陰毛(または腰蓑)らしい。うーん。果たしてそうか? しかし、大きさや全体の形状から見て、手に握られて何らかの意味を持って使われたものであろうことは推測できる。
その後、この感覚は時代が下った土偶の造形へとつながっていく。確かに各地の土偶の様態、あるいは縄文土器の文様などのバリエーションの豊かさに興味はつきないのだが、この触覚的掌(てのひら)感覚による「握られるもの」として土偶を捉えると、その造形の機能や由来の謎が少し解きほぐされるような気がする。

2月26日 浮世絵の死角 板橋区立美術館
都内初の区立美術館の開館30周年記念展。そうか早いものだ。自分の卒業制作を預かってくれないかとぬけぬけと訪ねていったのが昨日のことのように思い出される。
内覧会のパーティに顔を出す。イタリア・ボローニャの東洋美術研究所の会員の
コレクションの初公開という。初めて見るものばかりで非常に新鮮だった。それも我々が知っている浮世絵の名品のイメージからかけ離れたもの。江戸の庶民が、当時浮世絵とどのようにつき合っていたかを彷彿させる。自分の眼の習慣化された働きを少々反省させられた。浮世絵を、つい近代的な1枚の作品(絵画)としてだけ見てしまいがちな眼を。

1月21日 命の認識 東京大学総合研究博物館
膨大な動物群の骨が、所狭しに整然と並べられている。即物的に。何のてらいもないインスタレーションに見える。
私は骨が好きだ。特に頭骨。ここではニホンカモシカが思いのほか良かった。ほんの僅かに膨らみながら隆起している頭頂部の形態がセクシーさすら感じさせる。大脳の部位が少しずつ肥大化し、頭頂部の骨を下部から押し上げる。そしてその圧力に骨が応えようとしている微妙なせめぎ合い。

これに比べると人類のそれは畸形のような肥満体だ。遥か遠い地点まで来てしまったものだ。進化の袋小路に既にさしかかってしまった? 
しかし、人類の頭蓋骨の縫合線は魅力的だ。これは複雑に蛇行する大河のような、人間が身体の内に持つ自然さの証の「かたち」だと感じた。


■2010.1.10

  25年前の伝言

言葉の力に鼓舞され、学生時代に戻ったような気分になった。

1984年5月から6月にかけてJ・ボイスが来日した時の8日間の記録ビデオ(水戸芸術館・"Beuys in Japan")を見てのこと。編集されているとはいえ、どの場面でも彼は真剣な表情で何かに憑かれたように語り続けていた。時には般若の面相も思わせた。断片的なフレーズからでも、常に本質的なことを言っていると思わせる切迫感が画面から伝わる。

伝説化していた彼が初来日した当時、私は結婚した直後で何かとせわしかった。「ついに来たか」と思いつつ、様々なイベントには行けず、西武美術館での展覧会を見ただけ。興味はもちろんあったが、巷でよく評されていたように、彼の年来の主張と矛盾するかように、なぜ西武の資本でホイホイと展覧会などしに来たのかと、私も少々皮肉混じりに日本での彼の情報に接していたのを思い出す。


しかし、今回のビデオの中の彼の語りをトータルで聞いて、ようやく腑に落ちた。彼はたった8日間の中で実にエネルギッシュに動いていたのだ。常に目の前にいる人と真剣に対話するために。そして彼が語った来日の経緯や活動のあり方は、今の時点で聞けば至極正当だったといえる。彼は皮相な見方で批判(あるいはやたらに賞賛)していた日本人よりはるかに大人だった。

ようやく日本人の時代意識が彼に追いついてきたのだろうか? 当時はまだアーティストの多くが無意識のうちに硬直的なイデオロギー対立や個人的美意識の拡張の範囲の中に取り込まれていたと言わざるを得ない。たとえ、そんなことはないと突っ張っても、やはりそうだったのだ。彼の主張を頭で理解できても、切実なものとして受け止められた日本の美術関係者は数少なかった。
日常、非日常、生活、社会、資本主義、価値観、自由、想像力、変革、そして芸術…、様々な言葉が次々と解き放たれ、一人一人の人間のもつ創造力があるべき社会(という彫刻)を生み出していく。その人間はみな芸術家である、その人間の自由こそが真の資本なのだ、という概念へと集約していく。学生時代に、断片的な情報で向き合った思考回路が蘇る。そして、自覚的にも無自覚的にも彼の精神的影響を受けていたことにあらためて気づく。

このビデオ群では、当たり前のことだが、字幕翻訳で彼の表情や仕草と同時に内容を把握できたのが新鮮だった。ラングとしての言語でなく、パロール(発話)の力が伝わってきた。(日本流で言えば言霊の力か。)活字の言葉では伝わりきらない息づかいやエネルギーの響き。アクションの力ともいえよう。'60年代のデュッセルドルフのアカデミーでもこのように語っていたのだろうな。

これらを単なる理想論、ユートピア思考というなかれ。仮に、彼の理想通りにはこれまで世の中が動いてこなかった、あるいはこれからそうならなくても、21世紀の今、彼の伝えようとしていたメッセージ(問いかけ)のリアリティーは色あせることはない。いや、もっと更なるリアリティーを伴って再評価されるだろう。
彼は、切実な表情をしながら「私には時間がない」と言っていた。古い友人や業界の人たちと世間話しするような時間はない、と。あの切迫感はここからだったか。そう、この僅か1年半後に彼はこの世を去った。

忘れかけた25年前の大切な伝言を聞いている感じがした。それは当時を知る私だけでなく、彼を名前でしか知らない若い人たちにとってもそうだったかもしれない。この奇跡的な企画(ビデオの所在を探すのに大変だったらしい)を実現させた学芸員の方の努力に感謝したい。



■2010.1.8

  江戸の粋・明治の技

三井記念美術館で開催中の柴田是真(しばたぜしん)の展覧会のキャッチコピーだ。安村敏信さん(板橋区立美術館長でこの展覧会の監修もしている)から頂いたチケットで見てきた。こういう事がないと自ら出向くことは多分なかったかもしれない。

漆の技法の難しさはある程度理解はしていたつもりだが、安村さんの解説文を読みつつ、老眼でおぼつかない眼をじっと凝らして観察し、ようやくその超絶技巧の凄さがわかってきた。中でも漆絵の傑作の多くが70歳代以降のものなのに驚く。そして、あれだけの数をまとめて見られたことで、彼の多芸多才ぶりと徹底した意気地が伝わってくる。

あのような「技」に対する執着心は、日本人の身体的記憶の深くに刷り込まれていることが大いにあると思う。それは中小企業などの「モノ作り」の現場でも生き続けている。私の若い頃の制作意識では、あのような「技」だけにのめり込みがちな日本的気質を嫌った(自分の中にもそれがあるがゆえに)ものだが、最近は、純粋な眼に成りきって「モノ」と一体化してしまえるフェティッシュなその感性に対し、それなりに許容できる範囲も広くはなった。まあ、あくまでも鑑賞者としてだが…。

彼の生きた時代は幕末から明治にかけて。文明開化の過程で西洋から『芸術』を移入し、様々な軋轢や葛藤が生じたたこの時代に興味はつきない。それは、西周(にしあまね)が、“Art”や“Kunst”という語に対し『美術』という訳語を生み出し、近代の表現世界に日本人が足を踏み入れた時代だ。
とはいえ生涯の三分の二は江戸時代に掛かっている。同時代人の有名どころでは国芳、暁斎、芳年らがいるが、長生きした北斎ともかなりの年月が重なっている。そして高橋由一や生人形の松本喜三郎などとも時代を共有している。今の私たちが、近代人としての芸術家という一くくりの概念で当たり前にとらえてしまってはいけない人物たちだ。

彼は、もちろんその中でも職人気質(かたぎ)の最たる人物なのだが、逆に、単にそう言い切ることもできまい。「技」だけで語れない複雑な人格の持ち主だったように感じた。それは河鍋暁斎などにも感じる。特に、明治以降、社会的に自らのよって立つ基盤が根底からぐらつきながらも、その中で、個人的に確固たる矜持と技でもって生き抜いた強靭な精神力の持ち主だったであろうことは間違いない。それを時に、「粋」という言葉で言い表せるのかもしれないが、九鬼周造的な「いき」だけでは括(くく)れぬもっとドロドロした何かがある。

近代を相対化できるようになった今の時代(ポストモダンのブームも遥かに過ぎた)だからこそ、その何かを再発見し、うすうす理解できるようになってきたのだと思う。この日の観客の多さと熱心さは、その現れの一つのような気がした。



■2010.1.1

  On the Planet


2010年。明けましておめでとうございます。

2001年の同時多発テロに始まり、グローバリゼーションの荒波に揉まれた「ゼロ年代」。私たちは次の「'10年代」をどう過ごすことになるのだろう? 
今から思えば、私たちの世界の構造的変化は、'90年代半ばあたりから本格化していたことがおおよそ把握できる。なぜかの分析はここではしないけれど、多分、同様に感じ取られる方々もおられるのではないだろうか。


さて、この写真。初日の出ではない。
昨年末、
作品資材を倉庫に運び入れた帰途、東北自動車道の下り線で撮ったもの。南西方向の低空を滑るようにゆっくり沈んでいく夕日を、進行方向に向って走行しながら1時間以上視界にとらえ続けた。時折、冬の柔らかい陽射しが路面を正面から照らし出す。光の中に地平線がとけ込む。自らも光に包まれる。オレンジ色の光の帯の上を滑走しているようだ。

"On the Planet"。こんなフレーズが脳裏に浮かんだ。一惑星上で活動するささやかな生命体の原初的知覚のようなものが発動する。あるいは宇宙飛行士が覚醒する感覚とも言えるだろうか。この感じ、このような偶発的な体験によって繰り返し私の中で生じる。最近の私の作品を見ている方は、なんとなくお分かりになっていただけるかも知れない。

こんなこともあり、年が明けて2001年と2010年を頭の中で併置したら、アーサー・C・クラークを思い起こした。もちろん彼のSF小説(と映画)からの連想だ。そして初期の傑作『地球幼年期の終わり』で驚かされた宇宙観と人間観も蘇る。
2001年を迎えた時もそうだったが、2010年なんて中学時代にアポロの月面着陸計画を熱狂的に追いかけていた身にとっては、地続きの未来のようでありながら、実は茫洋とした遠いSF的未来像として遥か彼方に感じていた。同時に、多くの人々が宇宙に進出しているだろうとも楽観視していた。だって、ライト兄弟が初飛行してから、人類が当たり前のように地球上を旅客機で移動できるようになるまでのタイムスパンの短さを思い起こせば、そうであっても不思議ではなかった。
しかし、人類が月面に降りてから40年以上も経ってしまった。思ったより現実は早く進行していない。「かつての未来」にたどり着いた今でも、まだほとんどの人々がこの惑星の重力圏の元にある。若田さんや、先日長期滞在で宇宙ステーションに旅立った野口さんのような人はいまのところ特別だ。

片や、この10年間で、かつて夢のように思えた事態も現実的に進行してきている。インターネットによるコミュニケーションの飛躍的拡大など、40年前から見れば、SF的世界が実現化されていると言えるだろう。地球そのものが脳のようにネットワークでくまなくリンクされたのだから。

そして、地球温暖化問題。世界大戦や核問題などとは異なる次元で、全人類が自らの生存をかけた会議を開き多くの人々が関心を払うなんて、あらためて振り返るとすごいSF的展開ではないか。ハリウッド映画ではなく現実なのだ。


ところが、先月の"COP15"では、期待された1997年の京都議定書以来の国際的合意はできなかった。私たちホモ・サピエンスが、今後もこの惑星の住人として存続させてもらうに相応しい想像力と行動力を、未だ持ち合わせていないことを露呈した。
当分、
私たちの存在は地球という重力(とその恩寵も含む)を抜きには語れない。その作用の内で太古の時代から変わらぬ「生老病死」を繰り返すのだろう。



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