日本におけるパフォーマンス・アート
そのショートヒストリー (1999)
1999.11“Asiatopia 2”
(タイにおけるパフォーマンス・アート・フェスティバル)カタログへの寄稿文(英語)から
1954年に始まる好景気から、1973年のオイルショックに至るまでの高度経済成長路線は、日本の1960年代を貫く大きな光と影を形づくっている。例えば、'60 年と'70 年の安保闘争による政治的混乱、1960年代後半の驚異的な経済成長、その後の深刻な公害や生活環境の破壊など、多くの社会的な矛盾や弊害が顕在化し、それらは必然的に当時の芸術家たちの意識に様々な影響を及ぼしていった。
この時期の日本の前衛芸術における、「アクション」を元にしたいくつかの活動は、近年、徐々に歴史的な位置づけが定められてきた。特に「具体美術協会」(Gutai Art Union) の活動は、国際的にもパフォーマンス・アートの先駆的な例として、すでに高い評価が得られている。他にも、この時代のアートシーンを振り返る上で、重要ないくつかの活動をあげることができるが、ここでは省かせていただく。私自身は、この時代(あるいは1945年以降からも含めて)の日本のアートシーンを通底するキーワードを、「抑圧された身体」という語で捕らえている。それは、芸術家たちがこの時代、前近代から近代社会へと本格的に変ぼうしていった過程で、社会的・政治的な様々な軋轢(あつれき)とどのように戦い、折り合いを付けていったかという、彼ら自身のモチベーションにとっての大きな原動力となった概念だと思えるからである。このキーワードは、この時代に顕著に特徴づけられるものではあるが、後の時代、または近年のアジア全体のアートを見渡した上でも、いまだ有効なものではないかと推測している。(このことについては、後日の機会に詳述したい。)
さて、1970年代以降になると、芸術家たちの社会・政治的状況に向けた先鋭的問題意識は次第に後退し、アート固有の内部的問題や、芸術家自身の内面的な方向へ問題意識が向いていった。「イベント」と称し、各個人の展覧会場であるギャラリーや野外スペースにおいて、個別的・実験的なアクションを、当時学生だった私はいくつか見た記憶がある。それらは、その前の時代ほど熱いものではなく、静かで内面的な精神性を主にした概念的なものが多かった。様々な実験精神に富んでいたとはいえ、単なる方法論に偏りがちのものもあり、私にとって、やや沈滞化しているように感じられたことは否めない。*1 日本に「パフォーマンス」という言葉が登場するのは、1970年代後半になってからである。1970年代前半の欧米のアートシーンにおいて、その名称の概念の枠組みがおおよそ確定、一般化し、それを受け日本でもそれまでの既成の枠に収まらない身体表現に対し、この言葉を徐々に用いるようになったと思われる。私が自分の創作活動の中に、「パフォーマンス」的なるものを取り入れていったのもこの時期と重なる。私にとってパフォーマンス・アート(あるいは行為、アクション的なるもの)とは、とかく現実社会との接点を見失いがちな創作活動を、常に現実という磁力の中に引き止め、回復させるための方法の一つとして有効なものと思えたのだ。
1980年代に入ると、この言葉に日本独自のムーブメントが加味された。美術・音楽・ダンス・舞踏・演劇・文学といった分野を超えた芸術家たちが、新たに活動を活発化させていった。その中からは、及川廣信を中心とする「檜枝岐(ひのえまた)パフォーマンスフェスティバル」(1984)のように、その後、パフォーマンス・アートが日本に定着していく上で重要な契機になったものもあった。しかし、そのムーブメントも、80年代後半になると、日本の経済的繁栄の中、多くは商業主義に絡み取られ、アートとしてのインパクトは弱められ、解体し、風化していった。それと同時に、「パフォーマンス」という言葉が、気軽に(特に否定的な意味で)一般社会の中で用いられるようになり、表現の現場においても個別の方法論の中に再び沈潜していってしまうような空気が生まれていった。*2
その後、1990年代に入り、バブル経済の崩壊後、霜田誠二をディレクターとする「NIPAF」(1993)が開始され、芸術家同志の国際的ネットワークの重要性を再認識し、そこで行われる交流によるパフォーマンスの有効性を回復しようとする動きも出て来た。近年は、パフォーマンス・アートを、諸ジャンルを横断して表現に活力を与えるような働きを持ったものとして捕らえながら、かつてのムーブメントの反省を踏まえ、その新たな可能性を探る動きが、若い世代にも受け継がれてきつつある。
(後日・追記 2003)
*1
この時代の個々の表現行為は、ほとんど公に記録を見ることはできない。アーティスト個人か、一部の写真家、ギャラリーの資料としてしか残されていないことが推測される。研究者の興味も、この辺りの詳細には未だ向かってはいないようだ。日本の美術史的な観点において、この辺りの「地味な」行為表現を改めて見渡すことによって、実は見逃すことのできない面白いものがあぶり出されるのではないだろうか。
*2
上記とも関係するが、日本の近代美術の歴史を振り返ると、「継承性の欠如」の問題が常に付きまとう。パフォーマンスという一回性に重きをおいた分野のみならず、他の分野でも同様である。バブルのようにその場限りで消えてしまうのである。そして、その同じ構造が空回りのようにくり返されるのである。パフォーマンス・アートのような分野は、特にこの日本特有の構造が顕著になる。この問題については、文中にも書いたように、いずれ機会があれば書きしるしたいと思う。
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