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2010年 (2) ⇒ 活動状況 2012年(1)
■2010.8.19
オールドファッション・サイトの開き直り
久しぶりの更新。その間、この欄もいくつか記していたのだが、なかなかアップロードに至れなかった。
このサイトをつくっているPCが不調。だいぶ前のWeb制作ソフトを使い続けており、不調になったPCでしか使えない。新しいPC(つまり新しいソフトが導入された環境)でつくると、ヘタクソながら8年間少しずつ更新して来たこのサイトを、初めから再構築しなければならない。ソフトのヴァージョン間の互換性が既にないのだ。そんな面倒な時間は今のところ取りたくない。PCのご機嫌をうかがい、だましだまし接続している状況が続いている。
いつ、ダメになることやら。これを書いている途中でも、何度かトラブルを繰り返す。メモリを認識したりしなかったり…。どうもロジックボードが不安定らしい。銀座のアップルストアに行っても、すでに交換部品はないと言われた。(これまで3回も修理に出してるしな。)
また、先月はずっと家(制作スタジオ)のリフォームが続いた。生活がかなり慌ただしく、バタバタしていた。それが今月に入り、ようやく少し一段落ついた。
前回以降のいくつかの報告を、経過的にまとめてアップしておく。
もう少し小回りの効く情報発信も良いとは思うが、次々と書くことがあるわけではない。だから、ブログは何となく肌に合わない。ツイッターのような短絡的つぶやき情報交換も自分の生活リズムを壊されかねないし。
今の所、これまでのようなゆるい時間とスタンスで、オールドスタイルのサイト管理が自分の性に合っていると感じている。
■2010.8.16
「ソライロ」プロジェクト開始
新習志野駅からタクシーで千葉港に接岸している3代目南極観測船「しらせ」へ向かう。
引退後、株式会社ウェザーニューズに買い取られ、解体されずに『世界中の海氷をモニタリングするグローバルアイスセンターを始め、地球環境を様々に観測・感測する拠点としての機能を持ち、地球環境や気候変動などを考え、交流・共創する場(紹介チラシより)』としてこの埠頭で接岸したまま一般公開されている。
この日、一般客は誰もいない。
何しに行ったかというと、この日ここで「ソライロ」プロジェクト(まだ名称未確定)がスタートしたのだ。
これについては、追々詳しく報告していくことになると思うが、簡単に説明すると、全国のウェザーニューズのサポータの方々が、毎月16時16分16秒の空を撮影する。それにGPS情報をつけて簡単なコメントともに送信してもらう。その集まった画像を素材として私がアートの作品にしていく、というプランだ。
プランナーは私の友人なのだが、彼といろいろ話しをしているうちに、このプロジェクトが今までの私の作品制作のコンセプトや方法論とかなり重なっているのに気づいた。自分自身でも、最近の作品の方向性に面白い展開を呼び込めそうな予感がしている。 ソライロの「イロ」を掛けて16日にしたという。この日のスタートは第一弾として、ニュース配信の放送で艦上でインタヴューを受けるというものだった。炎天下の元、このプロジェクトに「ぜひ、皆さん協力して下さい。」と呼びかけた。
カメラ前のインタビューは久しぶり。カメラ目線にならないように気を使ってしまった
この欄でも、協力頂いたサポーターの方々に、ご挨拶させていただきます。皆様、ご協力どうもありがとうございました。
8月16日16時16分の空の画像が、3200通も届けられたと聞きました。サーバーがダウンしてしまったとか‥。
その一部を少し見せていただきました。すごい! いろいろなソライロがありました。
一斉に全国の多くの人々が空を見上げている。そしてその画像が集まって来る。そのことだけでもワクワクしました。
どんな作品になるか、これからじっくりと構想させていただきます。
皆さんから送っていただいた1枚1枚の画像、そして想いを大切にしたいとあらためて感じています。そして、継続的にどんどん画像が集まって行くプロセスも作品の中に取り込めたらいいな、なんて思っています。
構想をお伝えできるのはもうしばらく後になります。楽しみに待っていて下さい。今後も毎月16日、ソライロの日は続きます。その時は、またよろしくお願いします。
■2010.8.5
リフォーム完了
何もない状態のスッキリした空間は気持ちが良い。
天井が90cmほど高くなった。事前の予想より上げることができた。それだけでだいぶ広がりを感じる。壁面も白い。露(あらわ)になった柱や梁はそのまま剥き出しに。壁とのコントラストがけっこう格好いい。
束の間の安堵感と充実感。
しかし、すぐに預けた収納物が倉庫から戻ってくる。そして制作作業が待っている。あっと言う間にこのスッキリした空間は消えてしまう。仕方ない。今後は収納物を整理しながら、少しずつ制作スタジオとして使いやすくしていくことになる。いずれ「自宅展」などもできるかもしれない。
壁には12mmのコンパネを張る。これで柱を取った分の補強の足しになるという。
窓は二重サッシの防音に。 右写真の奥の部屋には収納室も設けたが、余り広くとれなかった。
今回、大工の腕には恵まれた。これまでのリフォームやメンテナンスでは「これはまずい…」という職人が時々いたものだ。ほぼ一ヶ月間、蒸し暑い中で親方と若手の二人で黙々と作業していた。特に、天井高を上げるため、断熱材を入れながら斜めにボードを張りつけていく作業は、結構大変だったはず。見事な仕上りになった。無理して自分でやらずに良かった。近頃の大手住宅メーカーの注文住宅は、事前に工場で組み立てられたユニットを現場でプラモデルのように組み立てるだけという。運ばれてから基礎の上に数日で側(がわ)は建ってしまうこともあるらしい。そういう工事では大工の腕は上がらないし、その必要もない訳だ。
リフォームでは、元の材料・空間を生かし、少しずつ折り合いをつけながら作業をしていく技術を要する。ゼロから新築するより難しい面もあるだろう。それは、アートの造形プロセスに何か通じるものがある。
そういえば、先頃行ったフィンランドで、当地の家が住み手によってコツコツ手を入れられ、長い間使われているのを目の当たりにした。100年以上も前の家を修理しながら暮らしている。外見は少々がさつでも、一つ一つの部材自体はごつく、丈夫な造りだ。壁の厚みは冬の寒さに備え30cmくらいは設けている。同じ木造でも断熱や採光の対策などには、見習いたい点も多々あった。古来の日本の伝統的家屋もそうだったはずだが、現代の日本の住宅には、そのような思想やスタイルは失われている。自然災害の多い国土や、消費中心の生活スタイルのせいもあるだろうが、日本の家屋の平均寿命は30年ほどらしい。
何が起こるか予想がつかないとはいえ、多分、余程のことがない限りこの家がわれわれ夫婦の「終(つい)の住処」となっていくだろう。今後も少しずつ手入れを繰り返しながら、長く住まわせてもらいたいと思う。
■2010.7.27-29 合宿・ワークショップ
高校生に向けて、ワークショップを八ヶ岳山麓・清里の竹早山荘で行う。
前夜まで所用があり、朝早く車で出発。先に現地入りして待っている生徒諸君の前に、9:00の集合時間ぎりぎりで間に合う。今回、事前に提出した計画書に書いた総合テーマは、『世界を○(マル)くみる』
しかし、あまり念入りに準備したわけではない。いくつかの使いそうなアイテム(傘、地球儀、各種の地図など)は用意していたが、お互いに顔を合わせ自己紹介してから、次第にどんなふうに進行して行くかの方向性を見出して行くつもりだった。
自分が居る「場所」(その客観的な位置把握や主観的な地図づくりをしてみる)をどのようにとらえられるのか? そこから身の周りの世界をどのよう見るか? といったことを一緒に考えてみようというような導入から始めた。話しをしながら、直感的に浮かんで提示したサブテーマが「偶然」と「出会い」になった。(いくつかのキーワードが出ると、ワークショップは、動きや思考が次第に活発化してくるものだ。)
初日の午前中は、「直線を探す」というテーマで周囲を散策し、報告し合う。
報告を聞きながら、次第に自然について、あるいはヒトのが介在することについて見直してもらおうという趣向。その後、地球や天体の話しなどマクロスケールの話しへ一挙に展開する。(皆、ここでけっこう戸惑ったが。)午後は、透明傘にドローイング・ペインティングを施す課題。
ダーツゲームの乗りで広い敷地内の地図に矢を投じ、当たったポイントが自分の座る場所となる。「偶然」決まった場所に探検しに行き「出会う」。そしてそこに座り、周囲を眺めることからスタート。
傘の湾曲した形状は、人間の視覚の構造に則り、自然な知覚を呼び起こす。生徒達は慣れない虫の襲来にっ辟易しつつ、ゆっくりのびやかに眼差しと手の動きを沿わせて行く。思った以上に面白いものが制作された。夜は、ミーティングで自分の近作の紹介。
地球雲画像や様々なパフォーマンスの映像を見せながら、自分の近年の興味と、今回のワークショップの繋がりを語る。
ドローイング・ペインティング
左:偶然決まった場所に座って周囲を眺める。傘の柄が視軸(視垂)となり、ビニールが視界となる。
中・右:透けてみえる風景で、眼差しと手の動きが一体化しやすい。タッチが生き生き動く。
翌朝も快晴。午前中「身体ワークショップ」で体慣らしからスタート。
地面に寝そべり大地の動きを感じ、雲の動きに意識を向ける…。全身をアンテナにして、風や音に五感を研ぎ澄ます…。次第に、意識が空間にとけ込み、眠っていた身体が覚醒してくる。午後は、グループワークによる「傘を用いた野外インスタレーション」。
5人ずつ3グループに分かれ、自由にコンセプトを相談しながら煮つめ、共同制作。夕方にプレゼンと合評会。うん、なかなか良い。パフォーマンスにチャレンジしたクループもあった。
野外インスタレーション(共同制作)
左:小川の流れをまたいで動き出す生命体のイメージ。中:地球を彷彿とさせる球体状のオブジェとそれを取り巻く色水を用いたパフォーマンス。 右:コクピットのような人を囲む装置的空間。動きを誘発させる。
夜はレクリエーションの花火大会。
線香花火の火玉は、"○(マルい)"。久しぶりにじっと見つめる。空が霞み、天の川が見えなかったのは残念。都会の高校生にとっては、世界(宇宙)の"○(マルさ)"も感受し、ミクロとマクロの照応をつかめるチャンスだったのに。ここでのワークショップは「自然に働きかける」ことを基本にしている。2日間で、結果的にやや盛りだくさんになったとはいえ、準備・計画通りに進行する授業は目指さず、自然の成り行きに任せた流れを尊重した。(ワークショップとは本来そういうものだ。)なかなか上手くいったと思う。
そう言えば、森の中で鹿の屍骸にも出くわした。(左下写真)
管理人さんの話しでは、5月頃に人間が仕掛けた罠にかかって死んでいたのを発見したという。その頃まだここは肌寒い季節。死んだばかりの様子で生々しかったらしい。たった2ヶ月でこんな見事(!)に白骨化しバラバラになってしまうとは。こういう意外性に出会うのもここならでは。驚ろかされた。これも自然の持つ力か。翌日全て終了。帰途、近くの清里現代美術館に立ち寄る。
ここに来るのは久しぶり。新しい展示室が出来ていたのは知らなかった。ボイスをはじめとする充実した資料展示(中下写真)には感心する。私にとっては特にフルクサス関連の資料が興味深い。ゆっくり調べてみたい物もあるのだが、なかなかその機会も訪れない。コレクターで研究者の伊藤信吾さん(右下写真)の、アーカイヴに対する思い入れは深く、話しは尽きない。そろそろコレクションをどこかに委ねたいそうだが、なかなか良い条件の引き取り手が見つからないそうだ。日本でこのような貴重なコレクションを見られる機会がなくならないでほしいと願うばかりである。
■2010.7.20
リフォームから発見する豆知識
朝8:30から夕方6:00頃までずっと二階で工事が続いている。なかなか落ち着かない。炎天下も続き、剥き出しの二階は蒸し風呂状態だ。「結構ですよ」と言われてはいるが、出来る限り10:00や15:00のお茶出しもする。やっぱり彼ら(様々な業者さんや大工さん)とのコミュニケーションも大事だしね。
そこからいろいろな発見もある。大工さんの話だと我が家はなかなか良い施工らしい。細部の造作が、同業の目から見てもしっかりできているとのこと。また、柱の垂直等もほとんど狂いが生じていないそうだ。ひどい家は柱が上下(一間の高さ)で5センチくらい傾いていることもあるという。
現行の基準前の建築ということで心配していた耐震性も、点検に来た一級建築士さんの話では、在来の木造軸組工法の日本家屋として一般的な強度は確保できているそうだ。柱も今の新築家屋より太いものが使われているらしい。(直下型大地震がきたら駄目だろうが。)
彼らとの話から、ちょっと面白いことを発見した。柱材に押された製材所のスタンプの向きのことだ。どの柱も文字が逆さなのだ。何故かと訝(いぶか)っていた。若い大工は「末口」(木の梢側−上)と「元口」(木の根本側−下)が逆ではないかと勘違いしたようだ。(これは逆柱といって忌み嫌われる。住宅の柱等は自然の状態で立っていたのと同じように使うのが伝統的な作法。)
後でちょっと調べたら、製材所や材木屋で木材を立てておく時には、「末口」を下に向けるという。(元口が下だと下から水を吸い上げてしまい乾燥させにくいから。)私が推測するに、製材所ではスタンプをこの状態の時に押すのではないか。そして、大工が現場で柱を立てる時にはスタンプを逆さに向ける。そうすると末口が上を向く、と言う訳だ。もう少し調べたが、真偽のほどは定かでない。まあ、ベテラン大工や材木屋の間では常識なのかもしれないが。
これなど、私にとっては新鮮な発見だった。上下(天地)がひっくり返ったり、眼差しが行ったり来たりさせる空間処理。私の造形感覚に近い要素を連想し、妙に感心したものだ。
壁の撤去後、あらわになった内部の柱。
逆さに押されたスタンプ。全ての柱が同じ。「大工と雀は隅でなく」 隅の造作の難しさを言った諺。
寄せ棟屋根の野地板と、棟木と隅木の接合部。我が家はきちっとしているという。
その他、プロの新旧の道具やその使い方を見るだけでも、自分の参考になったり刺激になることが多々ある。建築の構造や伝統的な木工事についてもおさらいができる。工期中、ストレスはそこそこ溜まるものの、こんなところが面白い。
■2010.7.1
リフォーム始まる
以前(3.15)書いたリフォームがいよいよ始まった。約一ヶ月強の工事。結構長い。
築・34年、ごく普通の日本家屋の二階の間取りを変更し(間柱を取って部屋を広げ、天井を高くする)、屋根も日本瓦から軽量のガルバリウム鋼板に葺き替える。制作スタジオとして少しでも使いやすくなるよう、断熱、防音、耐震性なども考慮しつつ思案した設計だ。
二階にあった家財を、階下に降ろしたり倉庫に預けたりし、スッカラカンにした。けっこう処分もしたが、やはり作品や材料などの量がかなり嵩んだ。何と2tトラック二台分、倉庫のコンテナ五機分になってしまった。
初日から一挙に壁や床の解体が進み、根太(床下の支え木)を張り替えながらの木工事がこれからスタートする。
■2010.6.25
ワールドカップの教訓
下馬評を良い意味で裏切り、日本代表が一次リーグを突破。
様々な経験値を高めた上で、初めて見えてくる風景、得られる感覚というものがある。前回書いたこととつながるが、多くの実績を重ね、日本(人)の特性を武器にどのように戦っていくかを地道に学び、考えながら、勇気を持って実践していくことが、次(今回のワールドカップより先も含め)のステップアップにつながるだろう。
監督やそのときの選手の調子によって、同じメンバーでも全く戦いぶりが変わってくるサッカーのような世界は、長い目でそのようなことを継承していくメタレベルの視点を持つこと(あるいは人)がどこかで必要だ。たとえ世代交代ですべて入れ替わっても、過去の経験値はゼロにリセットされないように。それが歴史とか伝統を学ぶ真の意味だろう。
眼に見えないノウハウのようなものを学び取り、独自に消化し、それを継承・発展していく難しさの例は、会社の経営戦略、プロ野球チームのマネージメント、政治風土の中の意思決定プロセス(政権交代を選択した日本)のようなところまで、そこかしこに溢れている。(それを訳知り顔で、その場の空気に乗じ戦略論や戦術論だけで語りたがるのが、マスコミで跋扈するジャーナリストや評論家たちだ。)
一方、齢を重ねると、若い頃批判的に捉えていた、歌舞伎などの伝統芸における世襲制度も、古(いにしえ)の人々の問題意識と知恵が、そうさせたということが見えてくる。それは、経験値がおおかた個人に帰するアート活動などの場合でも、先に書いたミーム(文化遺伝子)にアクセスできるかできないかということと無関係ではなく、何らかの形で左右されるのかもしれない。
さて、このあと日本チームがどうなるか分からないが、多分、帰国したときにはマスコミが手のひらを返したように大騒ぎをして、岡田監督以下選手たちを出迎えるのは目に見えている。マスコミ側も現場でひたむきに戦った彼らのように、今回の教訓を元にステップアップしてほしいものだが、残念ながら、これはあまり期待できまい。
■2010.6.19
継承の困難さ
小型惑星探査機「はやぶさ」の7年ぶりの帰還(13日深夜)は、マス・メディアによるパターン化されたお涙頂戴式の物語的報道が巷にあふれた。
帰還成功後、JAXAのプロジェクトを率いた川口教授が、安堵の表情を見せながらも『この瞬間から技術の離散と風化が始まっている。』と発言したのが印象に残った。もちろん、次計画への予算確保のねらいもあったのだろうが、これはある本質を突くクールな発言だった。独自性とかフロンティア精神が必要とされる組織的分野において(はやぶさの場合はそのアイデアと技術)、そこで培い、得た経験を、将来にわたってどのように活かすかが実は大切、という問題提起だろう。
成果に安住し、一時でも停滞したら「継承力」が失われてしまうというわけだ。マス・メディア(特にテレビやデジタルコンテンツのメディア)はそのような視点で報道することはない。
ハヤブサの場合、人々の心を捉えた理由には、あれが重厚長大な巨大プロジェクトでなく、いかにも日本的なアイデアと繊細な遂行プロセスがあったのだと思う。マス・メディアが仕立て上げたストーリーだけではあるまい。そこには日本的なミーム(文化遺伝子)が宿っていたといえる。そのミームが発動しないと、どんなに知恵を絞ってもお金をかけても、継承力を持続していくことは上手く行かないのかもしれない。そのミームを発動させる鍵は、世論操作ではなく、少数の優秀なリーダーや個人の信念の中に密かに息づいているのだと思う。
■2010.6.3
重圧(力)から受ける作用
鳩山首相が辞任表明した昨日は、国際宇宙ステーション(ISS)から野口聡一さんが5ヶ月半ぶりに帰還した日でもあった。カザフスタンの草原に軟着陸したソユーズの「帰還モジュール」から大きな籠のような物に乗せられて彼は出てきた。「リンゴ」が重い、と言っていた。
子どもの頃、大人になれば宇宙旅行も出来るかもしれないと、私は漠然と夢見ていた。多分、もうかなりの確率で叶う事はないだろうが…。
体験してみたい事がある。
重力圏を離れ、無重力状態になって体がフワリと浮上する瞬間と、逆に、無重力状態から、重力によって徐々に自重が感じらるようになり、体圧がかかってくる過程。「上昇感に伴う気分の高揚」と「下降感に伴う気分の重り」と言い換えられようか。
宇宙飛行士たちのコメントを調べると、皆それぞれ宇宙体験について興味深い事を語っている。が、このことについては、今一つありきたりのことが多い。海中遊泳とかジェットコースターなどで、それに類似する事を体験したり想像する事は可能かもしれない。例えば、宇宙飛行士と対照的なフリーダイバーたち(彼らは、水深100m以上の深さに素潜りし、帰還=浮上する)のコメントには刺激されることがある。詰まる所、興味があるのは、このような体験が知覚や精神にどのような作用(生理・医学的な観点でなく)を及ぼし、どう創造力と関わるかということだ。
福岡伸一の『できそこないの男たち』(光文社新書)のエピローグは、この辺りのことついて科学者らしい分析が加えられ、多少文学的に書かれている。‥‥重力がぐんぐん私たちを引きずり込む加速度。それを私たちは私たちの身体の深部で受け止める。‥‥(加速覚は)身体のどこか奥深くが感受している。仮に、私がもし五感のすべてを失ったとしても、なお私は加速を感じ取ることができるだろう。加速覚は私たちをぞくりとさせる。そして加速覚は私たちにとって快なのである。‥‥
‥‥加速されたとき初めて私たちは時間の存在を感じる。それは最上の快感なのだ。なぜならそれが最も直裁的な生の実感に他ならないから。‥‥彼は「加速覚」という造語を用いている。私の関心と重なる部分がある。
建築や彫刻、ダンス・舞踊などは、この作用がバックグラウンドとして大きいジャンルだ。意識的にせよ無意識的にせよ、ほとんどこの作用との拮抗関係が、人間の創造力のエネルギー源になっているといっても過言ではないと思う。私についても、これが自分の表現の深化につながっていくだろうと考えている。いつの日か、詩人が宇宙飛行をしたら、もっと素晴らしい言葉が紡ぎ出されることだろう。
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辞任演説をする鳩山氏は吹っ切れた様子で、それまでとは打って変わって歯切れの良い内容の演説をした。彼にとっては、総理大臣という重圧(重力)から解放された思いだったか。(自らのブレ発言と行動の不一致による自業自得の結果だとしても)
彼の場合の重圧とは、様々な人間や思惑の重りのようなものであり、この重力の下降感によって押しつぶされた。辞任を決めた時の晴れやかな表情は、自分の「思い(彼一流の言い回し)」だけを浮上させることを許された高揚感からのように感じた。(そんな風に読みとられること自体、真のプロフェッショナルな政治家ではなかったということだ。理工系出身の割に、時に文学者のような甘言を使うのを好んでいた。「友愛」とはその場しのぎで全方位にいい顔をしてしまう彼自身の性癖を指していた)
逆に、小沢一郎氏の表情からは、自分の思いを自重で沈ませながらそこに他者を取り込む気分の重りとしての下降感と、悔恨をにじませつつ個人的に奮い立たるような高揚感がない交ぜになったものを感じた。話題が飛んで、分かりづらくなったかもしれない。
しかし、重圧(力)作用と言うものを敷衍すると、このような所にも関係しているのではないかと思わせられる一側面ではあった。
■2010.5.29
白夜の国の6日間 (2)
(前回からの続き)
20日のパフォーマンス後、帰国までの3日間をのんびり過ごした。
妻も、彼女自身の現地制作プランをほぼ固めたようだ。素材調達や技術的な方法の見通しを立て、私の帰国後しばらくしてから6月12日のオープニングに向け制作に取りかかるだろう。
⇒ブログ「良い旅を・・・丸山芳子の日記」その間、地元アーティストの誘いを受け、いくつかの場所に赴く。
印象的だったのはトゥキカレイ島。イイの10kmほど北のボスニア湾に浮かぶ、端から端まで500mにも満たない程の小さな島。小さなボートで渡る。レジデンスの運営アーティストの一人、Sannaが父親の代から管理している古いコテージがあり、そこに一泊した。
サウナ小屋から見える風景。火照った裸の体で海に飛び出して行ってもヘッチャラ。21時過ぎ。真っ昼間と同じ。
島には、数百メートル離れいくつか別のコテージもあるが、この日は私たち夫婦と、Sanna、パートナーのMattiの4人だけの無人島状態。冬は閉鎖するが、この時期から必要最小限の食料などを持ち込み自由時間を過ごし始める。こじんまりした母屋の他にサウナ、薪、トイレなどの小屋も点在。電気、ガスはない。水は井戸のみ。明りはランプ、蝋燭で充分。シンプルなエコ生活。いや、あえてエコなどという必要はあるまい。昔は、どこもこれが当たり前だったのだから。 島内の森をしばらく散策。長い間人の手が入った形跡が感じられない木立、深い腐葉(土)、分厚い苔。このような環境に身を浸すと、眠っていた身体の奥底の原初的な知覚が眼を覚ます。
木々の一本一本の特徴を注視し記憶する。倒木と若木の世代交代をあるがままの状態で目の当たりにする。樹間から差し込む光線の神々しさ、足元から伝わるフカフカした感触や、木の葉の揺れ音や鳥のさえずりに体が共振する。自分が先史時代の人間に戻り、恐る恐る逍遥(しょうよう)している思いに捕われる。日本の里山や山中の森とは別種の世界だ。文明から一時的に離れ、このような時を過ごすことが、精神のバランスを保つ上でも、生物としての生命力を保持する上でも欠かせないわけだ。彼の地のアーティストたちの表現観・リアリティの一端がこんなことからも感じられた。
人跡未踏を思わせる深い森。無人島を彷徨するのは滅多にない経験。
日本の竪穴式住居と見間違えるような藁葺きの住居。中は広い。 キエリッキ ストーン・エイジ・センター ⇒ web site
ヨーロッパの北限に近いこの地にも早くから人類が進出していたという。ここには石器時代からの様々な資料展示がある。
左の写真は当時の再現された住居。驚く程日本と似ているが、こちらの方がごつくがっちりしている。やはり過酷な気候がそうさせるのか。建築構造の原点の同相性を感じた。
現代の住宅も、当地のは朴訥(ぼくとつ)な造りだが、防音・断熱性など断然優れているようだ。(耐震性は分からないが、柱の太さ、壁の厚さが違う)皆、100年以上前の木造住宅を繰り返しリペアしながら快適に住み続ける術を心得ている。
チップを鉈で削り、スモークする。途中で蓋を開けられないし、魚の量、薪の火加減などの違いで出来上がりが変わる。時間調整が難しい。
ギリシャ発のユーロ危機の真面目な話しをしたりしながら、2回トライ。1回目より2回目がうまくいった。帰国前日、やはりレジデンスの運営アーティスト、Anttiの自宅兼コテッジに招待される(この日は計7人)。ここも母屋、サウナ小屋、制作スタジオ、納屋などが広い敷地内にある。
近隣をのんびり散歩した後、先ず本場のサウナで裸のつき合い。薪を焼(く)べながら室内温度を70℃くらいに保ち、サウナストーン(香花石)に水をかけ蒸汽(ロウリュ)を出す。白樺の葉がついた小枝(ヴィヒタ)で体をバシバシ強く叩く。体の循環が一挙に活発になる。15分程してからシャワーを浴び、外でビールを飲みながら涼む(一応タオルは巻くが蚊に食われる)。それを3回程繰り返す。その間、サウナの蘊蓄(うんちく)を傾けられる。TVを見ながら入る日本のサウナは許せないらしい。フィンランド人は、サウナで生まれサウナから死出の旅立ちをすると言う。例えれば、相撲の土俵のように神聖な場所なのだ。
リフレッシュした後は、白樺のチップで魚の薫製作り。これが絶品の味に。ワインを飲み、フィニッシュ・タンゴ(アルゼンチンと並んで有名)でダンスをし、日が変わるまで歓談が続いた。
フィンランドは、日本より少し狭い国土に20分の1以下の530万程度の人口。北欧の典型的な福祉型社会を実現している。公教育レベルも世界トップクラス。しかし、この国でもいろいろな問題はあるらしい。無論国民負担率は高い。が、それはそれとして、特に医療や介護などは、公の福祉が弱体化し、お金がかなりかさむプラーベート型のものが幅を利かせてきていると口々にぼやいてた。国の成立条件が違いすぎる点もあり、単純には比較できない。それでも全体的には日本が今後見習うべき点もけっこうあると思った。昨今、日本の少子化や人口減について危機感が喧伝(けんでん)されるが、そのほとんどが短期的観測による、経済力を基盤にしたプレゼンスの論点から。仮に将来7〜8000万人くらいに人口が減っても(うまくソフトランディングさせるのは難しいが)、それによるメリットや可能性についてもっと柔軟に語られて良いのではないだろうか? こちらにいる間、時々そんな事が頭をよぎった。
■2010.5.18-23
白夜の国の6日間 (1)
フィンランド。日本から直行で一番近いヨーロッパ。
短期間だが、レジデンス先での自炊生活。先に妻が現地入りしているし、日本の隣町に行くような気軽な身支度で行って来た。
現地に到着した日は、至る場所に生えている白樺(バーチ_birch)から、新緑が丁度芽吹きはじめた時。花の開花時期は少し後らしい。淡緑一色のさわやかな風景が出迎えてくれた。桜や各種の花が咲くカラフルな日本の春の訪れとは趣が違う。滞在中は温暖な日が続いたので、みるみるうちに緑が広がり濃度を増していった。帰る頃にはちらほら花も咲き始めた。好天に恵まれた6日間だった。
今回滞在したイイ -Ii-は、同国の西、ボスニア湾岸の北極圏に近い瀟洒(しょうしゃ)な街である。これまで私が訪れた所では、一番高緯度地域になる。昨夏、ヘルシンキに滞在した時も、昼の時間の長さに少し驚いたものだが、ここはすでにこの時期から夜中暗くなることがない。陽は落ちても薄明が朝までずっと続く。 [左]イイ川ほとりで撮影した作品写真
深夜1時半頃。この時間帯、なぜか無風になり時間が止まったように静まり返る。鏡のような水面に自身が生じさせた波紋を広げ、それが数百m先の対岸まで伝播する。神秘的な風景。この光景を見られただけでも来て良かった。CG加工などしていない。ロマン主義的作品?
冬は-30℃。ある人は寒さよりも暗さの方が辛いと言う。特に冬の最終盤2月頃。なるほど、ただでさえ短い昼間が、薄暗がりだったらそりゃ気が滅入るだろう。だから、5月のこの時期は、皆人々が活動的になり、顔つきが生き生きし始める。多くの人が解き放たれたように自分のコテージに行き、自然とともに週末を過ごす。
さて、20日午後に行ったパフォーマンス。
KulttuuriKauppillaアートセンターで、"ART Ii Master-class: Art in Environment"と銘打ち、妻の芳子が参加する"Biennale of Northern Environmental and Sculpture Art"展のプレ・イベントとして行われた。観客(参加者)は事前予約制の15名のみと聞いた。理由は分からないが、申込みを断るのはもったいない。結果的にアーティストや美術関係者が多いらしい。親密な雰囲気の中で行われる感じになりそうなので、いつものように現場を少しリサーチしながら、内容・段取りを決める。
地図、土片、手型 青皿、水、影、足型 口に含んだ水を放出 鏡、手型、地球雲画像
午前中、妻の芳子の作品紹介のレクチャーと、以前二人でプロデュースした"Between ECO & EGO"展の活動紹介をした後なので、それらと関連づけた、周囲の環境を対象化した作品を構想した。人数が多くないし、一人一人と少しずつ関わる行為をつなぎながら、屋内〜野外〜屋内と移動する3部作のパフォーマンスである。
コンセプトを簡単に書けば、『この土地と人々の身体を貫く気流(土・砂・息・水の関係)の顕在化』といったところか。参加者たちは、リラックスしながら見ていた。日和といい、内容といい、今回は結果的に穏やかな時空間が形成された。[右]翌日、地元新聞の一面にでかでかと載った紹介記事
カメラマンの都合で、パフォーマンスの現場でなく、事前に撮ったポーズから一番アイ・キャッチの強いものが使われた。見出しは「地球、滝の音を聴く?」といった感じらしい。写真はともかく、言い回しとしては悪くない。
■2010.5.16
ちょっと行ってきます
来週から一週間ほどフィンランドに行ってきます。
すでに妻の芳子が、アーティスト・イン・レジデンスで、現地(オウル市 -Oulu-近郊の、イイ -Ii-にあるKulttuuri Kauppila Art Centre)に滞在中。6月半ばまでの滞在期間中に、永久設置の野外展示を制作する予定。
私も、5月20日、以前二人でプロデュースした"Between ECO & EGO"の活動紹介がてら、パフォーマンスをする予定です。
彼女の報告では、高緯度地方だが、寒さもだいぶ和らぎ良い気候になっているらしい。さて、パフォーマンスで何をするかは、いつものように現地入りしてから決めることになるでしょう。
後日、報告します。
■2010.5.14
クラウドに向って
(前回 5.11の補遺として)
記録を「ブツ(物)」として捉える博物館的なストックにこだわっている限り、前回書いたような収納の悩みは尽きないだろう。個人レヴェルでは所詮限界がある。住宅事情が良いとは言えない中で、ストックが増え続けるのは、文字通り物理的に無理というもの。
人生の活動期(クリアな頭でそこそこ健康に動ける)の三分の二は確実に過ぎている身からすれば、増やすことよりも、絞り込み減らすことに割く時間が増えるのは自然の成り行きでもある。もちろん、新たな制作や活動をストップする訳ではないけれど。記録を「情報」として捉えて世界を見渡すと、今まさに時代が大きく音を立てて変わっている。
iPadの登場で、じきにグーテンベルグ以来の「紙+印刷メディア」が主役の座を降りることになるのは確実だ。もし、すべての電子書籍化が実現したら、私の家で占めている書庫スペースは劇的に小さくなる。作家の作品集・資料集が、電子ブックで流通されるのもすぐだろう。私の場合だったら、パフォーマンスも動画と音声つきで見られる訳だ。
そして、世の中は「情報」を集約的に占有し管理するのではなく、また、非集約的に私有し保管する仕組みだけではなくなりつつある。 『クラウド』。
そう、「情報」を非集約的に共有して、いつでもどこでも引き出せる仕組みに向っている。
シンプルな「情報」、たとえば単にコンテンツとかデータを載せるアーカイブとしての「メディア」に置き換えられるものについていえば、このクラウドに飛び込んでいけば、収納スペースの悩みなどほとんど解消されることになる。(デジタル化する手間は一時的にかけなければならないが。)
クラウド化には、それに向けて様々な阻害要因やリスクもあげたら切りはない。しかし、グテーンベルグよりさらに以前、粘土版やパピルス以来数千年にわたって人類の思考や行動を下支えしてきた、文化的アプローチの方法(先に記したような仕組み)を根底から覆していく起爆力を秘めている。人類の創造性の仕組みを変えてしまうような。
さて、アートは単なる情報ではない。アーカイブだけでアートは成り立つ訳でもない。クラウド化が世の中で当たり前になった時、アートはどのように変わっていくのだろうか? あるいは変わらないのだろうか?
■2010.5.11
記録の整理・するべきものとしないもの
先頃、渡邊晃一氏の個展(『テクストとイマージュの肌膚』の出版記念 渋谷 ZEN FOTO GALLERY 4/28-5/8)で、完成したばかりの作品集を手に取った。初期から現在までの様々なタイプの作品が体系化され編集されている力作だ。感心させられた。評論や対談も収録されている。ご本人曰く、デザイン的にはもっといろいろなことをしたかったらしい。
私も、比較的自分の表現史の記録や体系化など、自覚的に行っている方だとは思うが、あそこまで徹底しながら上手くはできない。自らの過去の制作を客観化し自己分析できるのは(特にチャート化された作品の系統樹など)、ある種の特別な執念と才を感じた。最近、様々な活動記録の整理や保存の煩わしさと困難さに気をもむことが増えている。デジタル時代になっても、こういうものに関する便利さを享受することはあまりない。昨年、倉庫に保管している作品の一部を処分。今年の連休中はリフォーム準備もあり、家内に溜まった収納物の整理に着手した。
今回は自分の物もさることながら、6年前に他界した父親の遺品に手をつけた。既に、大まかに処分したのだが、保留にしていた物も多かった。特に戦時中の記録にまつわる物がそれなりにあったから。
父親は諜報関係の任務についていたこともあり、生前、その頃の事を息子に話すことはほとんどなかった。晩年、ポツポツと話しを聞いたこともあったが、没後、日誌や周辺記録を追いながら、ようやくどんな様子だったかおぼろげながら見えてきたのだった。
遺族としては、日誌などは遺しておきたいと思うが、書籍とか地図(特に配属地だった千島やソ連関係の)などは、歴史の客観的資料としての価値判断が私個人では難しい。いろいろ確認しながら迷い、迷いながら判断する。そんなことを繰り返しながら、つい当時の日本や父親の状況に思いを馳せてしまう。何しろ一世代の差とはいえ、全く異なる青春時代を生きたのだ。父親の20代は、生死の境で国家を背負って生きていた。その距離の隔たりに想像の幅も広がろうというものだ。予想されたこととはいえ、あっという間に時間が過ぎてしまい、作業ははかどらない。結局、自分の物の整理も、「これらをいったい誰が検証するのか?」と生じた一抹の疑念とともに進まなかった。
多分、自ら整理してまとめ、不要な物は処分する事になるのだろうな。この最終的判断は直感的にするしかない。時間と気力があればだが。
絵画・学びの基礎とその手法
先日、17年ぶりという三本博子さんの個展(藍画廊 4/26 - 5/1)に顔を出した折、昔話に花が咲いた。彼女は、私が大学在学中に受験予備校で講師していた初めの頃の生徒。まだうら若き女子高生だった。
「丸山さんは、私のセーラー服姿、見ているんです!」 大学生と高校生の子を持つ彼女が、会場に居合わせた他の人に言う。彼女は実年齢よりかなり若く見える。
「知らない人が聞いたら、ちょっといかがわしいところで知り合ったように聞こえるね。」と大笑いした。その彼女の口から、私の脳裏から消えていた30年以上前の話がポンポン出てくる。
「私、今でも丸山さんが出したレポート持ってるんです。」「えっ、それなんだっけ?」
どうやらこれは、当時、大学の自主ゼミで出版したガリ版刷りの冊子のことだった。秋元雄史、河村正之、沓間宏らと出したものだ。彼女の方が、私よりその時の編集メンバーや内容をよく覚えている。
「そういえばそんなことしたな。みんな偉い立場になってるね(わたしゃ、別だ)。もはや、貴重品かもね。」
話しているうち、徐々に記憶が蘇ってくる。しかし、青臭い美大生が書いたあんな小難しいものを、受験勉強を始めて間もない女子高生に渡していたとは、ずいぶんリスキーなことをしたものだ。でも、彼女にはそれが刺激になっていたらしい。
意外と当時のほうが、今より受験勉強の枠外の情報を積極的に取り入れることに寛容な時代だったかもしれない。どうも現在の美大受験は、昔より幅広く自由なようでいて、実は均一でパターン化した情報に囲い込まれ、結果的に横並びの受験生を自動生産しているように感じることがある。そういう意味では、遥か前の石膏デッサン全盛の頃とたいして変わっていない。昨年、フタバ画廊の閉廊企画で、野見山暁治先生とお会いした時、「私は先生の入試改革('70年代半ば、芸大油絵科で氏が中心となり、石膏デッサン中心の課題から、想像性に配慮した油絵の課題へ比重を移した)のおかげで受かったようなものです。」と申し上げたことがあった。野見山さんは苦笑いしていた。
当時、これをきっかけとして試行錯誤しながら進められた入試改革は、一時的に良い活性化をうながした。しかし、その後は入試内容の迷走を招いたような形が続いている。退官後、野見山さんは、あれは半ば失敗してしまった、というようなことをどこかで自嘲気味に語られていたのだ。まあ、どんな形を採っても理想的なものはないということだ。話を戻そう。彼女は思い出話を続ける。
「"シミ"を描かされたのは、丸山さんが出した課題でしたよね。最初、エーッ、何でこんなことをするの、と思っていたけれど、やっているうちに面白くなった。」「あぁ、そういえばそんなこともしたね。」
これは、確かアトリエの床や壁の汚れた"シミ"を、緻密に描かせたのだった。フォルムや立体感などというオーソドックスなデッサン要素から離れ、不定形の"シミ"が誘発するイマジネーションの流れに、眼と手の働きをできるだけ沿わせる、というねらいだった。お気づきの方もおられよう。このネタはレオナルド・ダ・ヴィンチの、壁のシミからのインスピレーションの重要性を説いた絵画論からの拝借だ。
そんな密やかなねらいに、彼女は気づかなかったかもしれない。でも、手がスムーズに動き、集中できたのだろう。こんなことをしたというだけでも彼女の記憶に刻まれていたのは、少し嬉しいものだ。当時、アルバイト講師として自らの問題意識と重ね合わせながら、いろいろ工夫して課題を考案していたから。その後も、揺れ動く受験内容に対応しつつ、本質的な事からも外れないという二律背反の中で様々な課題を考えたものだ。
画廊を出た後、ふと、こんなことも思い起こした。もう一つ、レオナルドの一節。「最初の絵画は、太陽が壁面に作った人の影の輪郭線を描く一本の線であった。」
これは、恋人との別離に際し、夜の帳(とばり)の中でランプによって投影された恋人の顔の輪郭線を壁上に描いた、というプリニウスの「博物誌」の記述とともに、西洋人が魅せられてきた物語的な絵画の起源論だ。
初め、なぜそんな連想につながったのか訝(いぶか)った。三本さんの絵は色彩の方が線的要素より支配的だし。しかし、これを書きながら気づいた。
彼女は、自宅の屋上で制作しているという。描きながら寝てしまうこともあるらしい。(そう言えばよく日焼けしている。)光の移り変わり、風の感触、時々降られる雨と共に描いている、という彼女のペインティングは、そのような時間の経過が内在されているカラフルな色彩とおおらかなタッチで満たされた抽象画だ。
なるほど、子育ても一段落つき、昔と変わらず明るく話す彼女の「太陽の元で描いてるんです。」というフレーズが私の記憶中枢を時間差で刺激したのだろう。
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