大谷地下美術展(第6回)
「ダブルバインド空間−その美しき回廊」に参加して

 いま考えてみると、サブタイトルの中の《ダブルバインド》(注1)という語は、この第6回展を取り巻いていた状況を、実に良く言い表わしていたと思う。そして、私自身にとっても、このネーミングがまさに“でき過ぎ”と思えるほどの印象が残されているのだ−


当時の私自身と周辺状況

 地下採掘場跡(以下−『あそこ』)は、私に向けて、表現への欲望を沸き立たせるエネルギーを圧倒的な力で流れ込ませてきた。それは私の中で、「面白い事ができる」という、ほとんど何の根拠もない強い幻想と動機づけとなった。しかし一方で、「何もしない状態が一番いいかもしれない」という、裏腹な思いも同時に侵入してきた。まるで、まっ白なキャンバスの前で筆を持ちながら、浚巡し、葛藤する画家のように、強烈な二つ磁場の渦中に私は宙吊りにされた。
 また、私個人の表現上の問題意識の中には、〈場〉と〈素材〉の持つ力に、余りにも頼り過ぎるインスタレーションへの懐疑と嫌悪が、当時、大きく頭をもたげていた。〈場の異化作用〉という名目のもと、単にディスプレイ的に「作り上げてしまう」だけのインスタレーションとは別の方法論を、私は標榜していた。しかし、『あそこ』からは、その単なる〈場の異化作用〉へと私を誘惑し、安住させてしまうかもしれない怪しい気配を感じ、妙な戸惑いを覚えていた。
 それらはどういうことかというと、『あそこ』自体が、あまりにも日常空間と隔たった特殊な〈場〉であるがゆえに、個人の〈内部〉を揺さぶる不思議な力を秘めながらも、逆に、あっという間に、社会のしくみ・制度という〈外部〉の文脈の中に組み込まれてしまう危うさも抱え込んでいることを意味した。つまり、『あそこ』は我々作家や関係者にとって、様々な欲望が触発され、実験精神が試される所であると共に、意識の持ち方によっては、ただの「もう一つの変わった美術館」に、いとも簡単に成り果ててしまう、両刃の剣のような所でもあったのだ。
 その頃私は、格好良く言うと、さり気なく人の意識に変化を起こしたり、世界の認識について再編成を目論むような表現を、美術と自分の〈生〉のトータルな関わりの中で指向していきたいと思っていた。単に画廊や美術館を用いた〈場の異化作用〉を目指したり、個人の世界観を露出するだけではとても済まされないものを感じていた。そう、あれは1989年。20世紀後半の歴史に残る激動の年だったのだ。ベルリンの壁は崩壊し、共産主義という人工的な虚妄の理想世界は消えつつあった。日本では長い〈昭和〉が終りを告げたが、まだ資本主義のただれきった爛熟の真只中でバブル経済に浮かれていた。文化産業の商品化も加速度的に推し進められていた。それこそ現実の中で、世界観の見直しと再編成が進行していた。そんな状況の中、必然的に、私自身の美術そのものに対する考え方や活動も、いろいろな意味で再検討を迫られていたのだ。そして、その具体的な試みの一つのモデルケースとして、「何かできるかもしれない」という漠然とした思いとともに、私にとって二回目の大谷地下美術展に、やや迷いながら臨んでいったのだ。

準備段階での葛藤

 他の展覧会関係者の間でも、五回を重ねた様々な経験から、大谷地下美術展の展望、その様々な可能性と危険性が検討されていた。そこでは、「なぜあの〈場〉でなければならないのか」という明確な根拠が、各作家の中でも展覧会自体においても、はっきりしなくなっている問題が、相変わらず残っていた。また、「企画・運営を進行させていく主体をどこにおくか」ということも曖昧な状態だった。さらに、この年の初頭に例の地盤の陥没事故が発生し、大谷地域の安全性に重大な疑問が生じ、開催そのものが危ぶまれる事態になった。
「何とかなるさ」の楽天的な空気と、「何とかしなければ」の重苦しい空気の両方が漂っていた。《ダブルバインド》という酒井氏によるサブタイトルの命名も、多分、そのあたりから出てきたものだと推測する。しかし、それでも、展覧会の持続を前提に何らかの形でプラス指向をしながら、新しいことを導入し、ほぼ同じ世代・同じ地域での展覧会という限界を越えるために、だいたい以下のような方向性を打ち出していった。
・今まで以上に、世代やタイプの異なった作家に間口を広げていく。
・展覧会への参加・運営に対する各々の主体性が、稀薄になりがちだったことを見直す。
・すでにプランで立ち上がっていたベルギーとの交流展を絡めて開催する(1991年予定)。
ところが、その結果、1989年の展覧会そのものの準備は、時間が不足しがちになり、交流展の為の準備段階というか、場つなぎ的な性格を帯びることになってしまった。この第6回展のことを語ろうとするときの難しさはそこにある。企画した事務局サイドも参加した私自身も、中途半端な状態の中で、今一つ乗りの悪い状態だったことは正直なところ否めない。特に、陥没事故対策の成り行きの不透明さが、それにさらに重圧を加えていた。

展覧会の実際

 諸々の事情があったにせよ、第6回地下美術展は開催された。この回は、端的にいって、それまでの中で一番ソフィスティケートされた、ある種の落ち着きが感じられるものとなった。展覧会として「人に見てもらう」ための最低限の工夫やノウハウが、少しずつ生かされていくようになった一つの結果だろう。例えば、会場各所の照明はうるさすぎず効果的にあたりを照らし出し、また、所々にあった必要のないゴミもきれいに掃除された。半地下のスペースもさらに改装され、新たな、性格の異なる展示会場用のスペースとして生まれ変わった。つまり、〈場〉の美術館化の一つの側面が、善かれ悪しかれ少し進行したわけだ。多分、作品を見にきた観客にとっては、単純な意味で、前回までより見やすくすっきりした展示として眼にうつったことだろう。
 参加作家は14名。各自の展示スペースはゆったりと確保できる余裕があった。個々の作品の説明は省くが、全体的には、各々の空間を殺し合うことなく、おのれの世界を力強くおおらかに主張をしていたことが印象に残った。各作品が展示してあるスペースの性格の異なる〈舞台装置〉、例えば、砂面や水面、岩板の亀裂や柱の構造、侵入する自然光や照明光、湿気をおびた冷気やしたたり落ちる水滴などを、作品の物理的な背景や素材の一部として取り込み、その特長を生かした視覚的な効果をねらったものが多かった。
 これはどういうことかというと、各作家自身が、自分の制作行為・コンセプト・素材などと、地下スペースとの間に否応なく生じる様々なズレとか相剋に対して、それぞれのやり方でなんとか折り合いをつけた、もしくは、そのことを優先させた結果だろうと思う。〈場〉に何とか負けまいとあがき、作家内部の格闘のプロセスを、破綻をきたしながら諸にさらけ出してしまうような作品はなかった。これも、この回がソフィスティケートされて見えた理由の一つになるだろう。あまりうまい表現ではないが、このときの会場には、それぞれが自分のペースで関わりながら、なんとなく優しく淡々とした空気が漂っていた。
 しかし、この予定調和的な妙に落ち着いた雰囲気は、やがてある事件によって一転、波乱に巻き込まれることになった。次回のベルギーとの交流展を睨みながら企画したバスツアーの見学者が、展示場外とはいえ縦穴に転落した事故が起きたのである。このことで、その後予定されていたシンポジウムやパフォーマンス公演は中止され、後味の悪さを残して会期は終了したのである。

総括とその後

 結果的に、大谷地下美術展はこの年で終了を迎えた。その直接的な要因としては、先に述べた陥没事故の影響が大きい。この地域一帯に蟻の巣のように無秩序に広がっている採掘場の、いつ、どこで起こるか分からない陥没事故は社会問題化し、解決の見通しが立たないまま暗礁に乗り上げた。また、転落事故の民事裁判も長引いた。そして、予定していたベルギーとの交流展では、サポートのスポンサーの関係から、他の代替地を探さざるを得なくなった。結局、大谷から撤退せざるをえなくなったのである。しかし、もしそれらがなかったとしても、展覧会そのものはマンネリ化に陥る寸前で、本質的に見直さなければならない時期になっていたことは確かだった。
 振り返ってみれば、もともと、一人一人の作家および関係者各自の〈内部〉に生じた、『あそこ』との出会いのエネルギーは、様々な変容を遂げていった。「作品を展示すること」・「展覧会というシステム」そのものの見直し。また、「自分たちの展覧会」であり、かつ、「見てもらえる展覧会」として両立させることの困難さ。そして何よりも、一人の作家としてどれだけ納得のいく作品を、展覧会の成立のプロセスと深く関わりながら生み出すことができるのか、という大いなる冒険。それらを求め、問いかけ、克服していこうとする過程で、〈内部〉へのアプローチだけでなく、常に圧倒的な〈外部〉の文脈、つまり大きな社会的関係や他者との関係に多かれ少なかれ翻弄されながらも、否応なく立ち向かっていかざるをえないことに、我々は気づかされていったのだ。やがて、それらの経験が1991年のベルギーとの交流展などへつながっていった。
 改めて今、私は思う。美術について考え、志向することとは、作家自身の〈内部〉に向けるだけ −表現することや発表することの欲望を自己充足させてしまう −でなく、もちろん〈外部〉に向けるだけ −社会的論理や制度の中に膠着化してしまう −でもない。それは、美術そのものが〈内部〉にも〈外部〉にも跨がる、まさしく《ダブルバインド》状況にあり、その中での「明確なビジョンを持った絶えざる振幅運動」のことなのだ、と。
 地下採掘場という〈場〉、そして地下美術展との関わりは、以上のような経験と認識を具体的に与えてくれた点で、私にとって文字通り“でき過ぎ”と思える印象を残したのだ。

(注1) ダブル・バインド 
文化人類学者のG・ベイトソンが提唱した、精神分裂病に関わる概念。〈二重拘束〉と訳される。矛盾しあうメッセージを同時に受けた時に置かれる、精神的状況のこと。この概念は多様な社会・文化現象を理解するためのモデルとして、領域を広げて用いられることもある。

大谷地下美術展資料集より   1994.9月 脱稿


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