作家自身による、各種のコメント・メモからの参照(抜粋)



存在することと、崩壊しつつあることの双方の位置に同時にまたがる。そこでは、時間は直線的には流れず、空間も均質に広がっているわけではない。‥‥どちらも、現在のグローバリズムとローカリズムの、破壊的で不毛な対立を回避する手立てにつながるのではないか‥‥

⇒全文章へ ("Taiwa" コメントより 2005)


‥‥今まで世界の様々な都市を歩いてきて、直感したことがある。「私は、人間の脳の中を歩いているのではないだろうか?」 世界中の都市のあらゆる構造には、そこに住む(住んだ)人々の、無意識を含む集合された想念のようなものが反映されている。‥‥

⇒全文章へ (Between Eco & EGO 記録集 2004)


 ‥‥ 私は壊れやすいものを好む。積んでゆくそばからたちまち崩れていくようなもろい存在を。それは、けっして取るに足らぬものではない。存在すること、崩壊することの両者のポジションに同時にまたがり、一見、はかなげに、かつ、平然と立ち上がっている…、そんな姿を美しいと感じる。それは私たち人類が地球上に築き上げてきた文明、都市、共同体、家族などであり、又、私たち自身の「身体」そのものでもある。 ‥‥(中略)‥‥ 私は様々な土地・場所をフィールドワークする。そこで採取した土砂、植物、虫、廃材、ゴミ、家具や家型の部材、あるいは映像を用いてインスタレーションをつくり、パフォーマンスをする。それは、人間を知ること、つまり人間が人間として生きるとはどういうことかを知る手立てである。‥‥

(2003)


‥‥現在の世界の様々な現象を読み解くには、自らの眼差しを移動と固定のくり返しによって、世界のあらゆるところに遍在させることが必要だと思う‥‥

⇒全文章へ  (2002)


‥‥ヒトがかかえる「記憶」と「予感」の間を渉猟することから生じる、かけがえのない「この瞬間」の現出‥‥

(2000 papa)


‥‥自らのポジショニングを一つに固定化しないことは、価値観の相対主義に絡みとられてしまうことではない。資本主義のグローバリゼーションがないがしろにしてきた、様々な価値(真実?)の破片を、一種相対主義的なやり方で丹念に拾い集め、ある不変を知るための手立てである‥‥

(⇒Performance Artカタログ 2000)


‥‥あえていえば、瞬間瞬間に生じる、行為と感覚の出現(偶然性も含めた)とその交錯が大切なのだ。それはパフォーマンス・アートの本質を成している。‥‥人の生きている実感と共に共有できる予測不可能で繰り返しのきかないアートなのだ。予測可能を希求する近代的なシステムにパフォーマンス・アートは抵抗する。‥‥

(1999)


‥‥ものや空間に表現を仮託することと、時間の流れに仮託することの、共通する側面と異なる側面の両者が、自分の中で新たな発見と冒険を呼び覚ましてくれたのだ。言い換えれば、自己の芸術的本質の矛盾と二面性をも旺盛に表現できるかもしれないという、無謀とも言える確信を持ってしまった‥‥

(1999)


‥‥事物の意味は対象の内にではなく、そこに向かう「歩み」の中に宿る。そこで重要なのは何かに向かって進むことであり、たどり着くことではない。それも単なる通過でなく、遍歴する事において‥‥

( '98 パフォーマンスフェスコメント 1998)


‥‥モノやコトの相対的位置関係を考えること。そして、ヒトの想念がどのように移行・変化していくのかを探ること。それは一見、無関係と思える無数の断片的な事象が、実は繋がっているということに気がつく旅のようなものである。‥‥

(1998)


‥‥それでもなお、「現在」という出来事こそが過去も未来も生成する最大の原動力であり、原点なのだという当たり前の事実を、いま、あらためて考える。現在と行為に焦点を当てること。‥‥ 

⇒全文章へ  「On the Boundaries」カタログより  1996)


‥‥それは、美術そのものが〈内部〉にも〈外部〉にも跨がる、まさしく《ダブルバインド》状況にあり、その中での「明確なビジョンを持った絶えざる振幅運動」のことなのだ‥‥

⇒全文章へ  (1994)


都市が形成されるシステム、つまり人類が否応なく寄り集まり、生存していくための環境を、今後どう捕らえるのかを問い続けてみたい。
‥‥人間の消費の欲望を一つの切り口として、そこを流れるモノや情報の、無数の断片の細部を絶え間なく見続ける視座と、いっきょに壮大な光景の全貌を捕捉する知覚の運動の両方を、観客に感じてもらいたい。

(1994)


 作品・表現行為が、単に空間の異化作用や日常の活性化をもくろみ、現在の世界の在り方の情報を与えるだけの「鏡」のような、現状維持装置に結果的に堕してしまうことがある。私(もしくはあなた)と、カタストロフィー的状況の世界全体との関係が、もっと感覚的・精神的に、根底から再編成し直されるような、静かで強烈な契機が、本来そこには必要なのだ。

 (1993)


 私の視線、私の記憶や予感は、時間を越えて通過場を縦横にかけめぐる。私は世界の中心でも、部分でもない。私の眼は通過場における遠近法的空間の中心にある単なる特異点にすぎない。

⇒全文へ  (1992)


展示に使用した拾得物は、可能な限り廃棄処分しないこと。場合によって元にあった場所に還えされるが、ほとんどは穴を開けられた特製の箱の中に入れ込まれ、封印をされる。露呈することと、隠蔽することは同じことの裏表にすぎない。

(1990)


ビルの建設現場や解体現場、ダムや下水処理場、新興住宅街やスラム、大衆市場やゴミ焼却場など‥‥それぞれイメージは異なるが、時間の流れの緩急が生じたり、エネルギーや情報の集散が特徴的にあらわれる場の不思議な磁力に魅きつけられる。

(1990)


 垂直軸は超越性・時間性を想起させる。‥‥継起と集合の背後に隠された、きわめて微妙なパリティー(等価性・類似性)の破れを感じとることを我々は学ばなければならない。

(1992)


‥‥私にとってパフォーマンスとは、そのような固定化(世界に向かい合う)と、流動化(世界に紛れ込む)の間の、永遠の振幅運動の中に、自分の眼差しや肉体を、まず投じてみることである。‥‥私はフィールドワークを通じてサンプリングした(採集した)無数の断層面の間に、パフォーマンスの振幅運動をはさみこんで考えていきたい‥‥

(「IWAKI ART CELEBRATION」1991)


‥‥視線の通過場(環境)の断層面(画面)を貫く眼差しの流れが、主体(主観)としての眼球に始まりと終わりを持つのではなく、そこをさらに透過し、後ろに抜けてしまうようなことを想像してみるのです‥‥

⇒全文章へ  (1991)


‥‥穴の形には特別な意味はありません。この形は私達が自分の身の回りの世界をもっとよく新鮮に見て、感じ、それについて思索するためのきっかけを与えるニュートラルな記号、一種の「知覚のフィルター」の役割をなすものなのです‥‥

 (多摩川野外美術展カタログより 1990)


‥‥私の眼差しがそんな固定化−[世界に向き合う]と流動化−[世界に紛れ込む]の間で、振幅運動を繰り返す時に生じる、微細な擦過音や熱量を再確認し、増幅する手立てとしてのドローイング‥‥

⇒全文章へ  (1990)


私達の棲むこの世界の相を、ある種の「仮の宿」的な姿として見る。つまり、様々な「もの」や「こと」、「視線」や「情報」のありかや流れの様態が、時空間の中で連続的な厚みを伴って感じられるような、そんな壮大な通過場として世界をとらえてみよう。

(1989)


‥‥それはその場における、痕跡や出来事を密かに内在させている“記憶素子”と呼べるものといえます。‥‥私は現代の都市におけるフィールドワークを通して、現実という名の表層をすべりながら、その背後に匿された多義的は意味やイメージの網の目の中に紛れ込んでいきたい‥‥

(個展案内文  1984)


‥‥私たちが棲息しているこの世界で張りめぐらされている匿れた記号の集合(網の目)のネットワークの内で、とかく忘れがちになったり、いまだ気づかずにいるような、私たちの生存理由・歴史・文化などをとらえ直するための、現代の都市におけるフィールドワークなのです。‥‥私にとって空間とは、表現を通じて自らの手中に収めるための対象ではなく、すでに存在している空間と私の身体との緊張関係を持続していくための対象として‥‥

(1982)


‥‥空間のグラデーション、それは私たちの環境の網の目にある多くの記号や、その隙間にある未だかくされた多くの事象(事実)からかも出される気配であり、それを私たちの知覚が私たちにとって新たなる意味やイメージとして感得した時、感覚の「ふるえ」として気がつく‥‥

(1982)


‥‥世界は事実として存在しているだけなのではないだろうか。しかし、その、あるがままの事実をそのまま知覚することはできない。その多義的な意味やイメージを創り出すのは、世界そのものの側にあるのではなく、そこに棲む人間の知覚の領域にある‥‥

(1982)


歩行は単に空間的な点から点への時間的な移動にとどまらず、私たちが棲息している場や日常が描き出す。歴史や文化、そしてさらに私たち自身の内的な時間とも関わっている。

(個展案内コメントより 1982)


点在する局所に意識を向けて歩行していくこと。そこに私たちの棲息している場の全体像が垣間見れるかもしれない。

(個展案内コメントより 1981)


‥‥表現行為そのものを自己目的化したり、他律的な名目に委ねたりすることは容易ですが、性急に答えを出すことなく、この豊饒な世界の相の中で存在するものの多義的な意味やイメージを感知しつつ、現実の様々な制約から自由であり続けたい‥‥

 ⇒全文章へ  (1980)


‥‥その摩擦によって発生するものは何か。そのズレやゆがみの中で何が感じられるのだろうか。この自己撞着をはらんだ現実こそ、私の表現活動の根底にある。客観的な事実認識と主体的な自己確信の確実性を求めることの不可能性をおぼろげながらに自覚したことが私の現実の立脚点なのだ‥‥ 

  ⇒全文章へ  (1978)


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