私の現実   (1979)

先年、私は自分の生家が新築に伴って取り壊された時、一時的に自律神経が失調したような妙な気分を味わされた。これと似たような経験は誰しも持つものだろう。概して、人間の空間についての意識は時間に対する意識に比べると稀薄なようである。なぜなら空間と肉体との関係は、生まれながらに融合していて、境界線の引けないものとして知覚されているからである。家もおのずから人間の空間意識の中では、重要な位置を占めていることを、たまたまそのときの経験によって実感として受けとめることができた。G・バシュラールは「『世界に投げ出される』前に、人間は家の揺りかごの中におかれている」と述べているが、その揺りかご的空間が存在を止めた時、一時的に私の精神は空間と肉体の間で、宙に浮いたかたちになったのであろう。

今、私の手元には旧家の壁や、柱、窓などをフロッタージュした数枚の紙片がある。写真は撮らなかった。その紙片を見ていると何か変だ。当初、その紙片は単なる思い出の為に、といった意味で写し取ったのだが、生な実感をそれぞれを通して再び得られるのでは、と思っていたところ、そうではないようである。その形はかつての存在の痕跡を見事に残存させながらも、生活の臭いを覆いかくし、どちらかというた冷たく寒々しい姿をのぞかせている。その表面の突出のみがあらわにされた形象と、私の体にしみ込んでいる「住感覚」とでも呼べるものとの隔たりはいったい何なのだろうか。…しかし、そのかわりにそれは私の精神の中で、体の中に癒着しているその「住感覚」をオーバーラップさせながら、溶解させる契機になる。

間主観的な、あらわされたものの力‥‥。この時、私はたまたま日常の背後にある、人間と空間の関係構造を垣間見たわけであるが、この「住感覚」は家の内部空間だけでなく、外部に広がる風景、都市空間などの外部空間へも投影される。自然や世界はただそこに事実として存在するだけであるが、私自身の内部感覚の投影作業を中断されない限り、それはそのままとして受け入れることはできない。

さて、家という空間が生まれながらに私の肉体と融合しているように、ほぼ先天的といえるほどの度合いで、私達の精神における感覚・知覚のパターンは、歴史や過去の伝統をひきずっている。たとえば、ティヤール・ド・シャルダンは人間が漸次獲得してきた感覚を七つに分類し、見事な筆致で表しているが、それはまさしく我々が気づかぬうちに引きずっている感覚だ。あるいは現実の日常生活における、あるイメージとして完結された情報の形で侵入してくるものも、自己の生存の本質的な部分で絡み合っている。本来的自己などと呼べるものがあるのかどうか私には皆目見当がつかないが、多くのものを知らず知らずの内に引きずりながら歩いている自分自身はおぼろげながらわかる。ダイナミックな大都会の街中を歩いている時も、田舎ののどかな道を歩いている時も引きずっている。夜空を見上げ、空想にふける時にもやはり何ものかを引きずっている。引きずっている、あるいは引きずらされている私とはいった何なのか‥‥。

私は多くのものを他者に、事物に、空間にゆだね、かつゆだねられている。逆にまた、世界の中からへだてられている、という実感をも抱いている。私自身の独断的幻想によりそれらの対象を絡み取ろうとする時、あるいは逆に実は絡み取られているのでは、と思う時‥‥。その摩擦によって発生するものは何か。そのズレやゆがみの中で何が感じられるのだろうか。この自己撞着をはらんだ現実こそ、私の表現活動の根底にある。客観的な事実認識と主体的な自己確信の確実性を求めることの不可能性をおぼろげながらに自覚したことが私の現実の立脚点なのだから‥‥。あたかも私を囲っていた空間がなくなった時、一瞬、私の精神が途方にくれたごとく、そしてその存在の感触を少しでも残そうとした紙片が、私の中に蓄積された感覚の印象と、へだたりをもっていたのに気づいた時の戸惑いのごとく、その摩擦は私の内部で発酵し、表現行為を再び促そうとする。

「住感覚」と私が呼ぶものは、単に家の中に住んでいるという状態にとどまるものではなく、日常生活における様々な局面の中に点在し、展開される。しかしそれは日常生活そのものとは異なっている。さらに、あらわされた作品として結果に残るものは、なおもそこから位相を異にしている。今の私には、あるイメージを追い求めて、何かを表現したいとか表現しようとする欲求は、なかなかわいてこない。それを私の中で見つけようと思っても、様々な亀裂に足を取られ、そして雲をつかむような空虚感にとらわれてしまうのだ。そう思った時には、ひょっとすると私が対象を客体視しているようで、実は何かによって絡み取られてしまっていて、自分自身が何者でもない存在と化してしまっているかのようだ。

私は今、自己史として知らず知らず引きずっているもの、引きずっている私自身を再検討してみたいと思っている。私が家の中で経験している、あるいは経験していた場、もしくは普段生活している場としての空間を通して‥‥。
引越しした時とか見慣れぬ空間にさまよいこんだ時、私はその引きずっている私自身を妙に瞬間的に実感できるのだ。しかしそれは瞬時に消え去り、惰性化した日常へと再び帰り、いずれ身体を通して内面化した空間の中へ埋没してしまう。つまるところ、私にとっての現実とは、私と全く無関係に時の流れの中に存在しているのではなく、自己の内部での、他者との、状況との、世界との矛盾の中で、なんとかめげずに生きようとするその時々において、初めて触れることができるものなのだ。

(1978.12月 脱稿) ゼミ・「座標測定実験室」レポート集より  1979.1月 発行


* ティヤール・ド・シャルダン 「現象としての人間」より

1.
われわれのまわりにひしめく事物のすべてを、無限の半径をもつ球体の内部にあるものとして、分解したり、組み立てたりする大宇宙においても、極微の世界においても、空間の無限さを感じとる感覚。

2.
精神機能の鈍重さのために、われわれがいつも過去という薄片に圧縮させる傾向のある諸事象を果てしなくつづく連鎖に沿って、無限の時間の感覚に押しもどそうと努める、深さに対する感覚。

3.
宇宙のもっとも小さな変化にも含まれている、途方に暮れさせるほどの多数の物質や生命の要素を眉一つ動かすことなく、発見し、把握する数に対する感覚。

4.
原子と星雲との極微なものと無限の広がりとを、大きさとリズムにおいて隔てている物理的規模の差を、どうにかこうにか実感しうる、比率に対する感覚。

5.
世界の物質的統一性をこわすことなく、自然の中で完成しているものと、成長しているものとの絶対的な諸段階を識別するにいたる質に対する感覚、もしくは新しいものに対する感覚。

6.
きわめて緩慢な動きのうちに隠されている、いやおうのない発展を知覚したり、また静止というヴェールの下に包み隠されている激しい動揺を知覚したりすることができる、運動に対する感覚。

7.
継起や集合性といった皮相的な並置状態の背後に、物質的連繋と構造の統一性を発見する、有機的なものに対する感覚。


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