パフォーマンスに関する覚え書き   (1988)

今、私が自分のパフォーマンスを語るときの背景について −両義的に感じられるある種の現実について。

▲ 例えば、埋め立て地において感じられる、都市の成れの果てのような風景(未来に投げかけられる廃虚のイメージ)と、 原初的な裸形のような風景(過去に向けられる発生・生産拠点のイメージ)がダブる世界観。

▲ 例えば、しばらく山中にいて下りてきたときに感じられるすれちがう人々の肉体性と、TVで見慣れたタレントを、偶然街で見かけたときなどに感じる肉体性のずれ。つまり、人の肉体が自然発生的な拠点に向かうことと、テクノロジーによって情報化され、次第に消去させられていく地点(ウォークマンをつけながら街を歩いて入る人を想起してみよう)に向かうことの両方に跨がってきている、という身体観。

▲ 例えば、テクノロジーの発達によってメディアが人と人、人と情報を繋ぐ役割と同時に、切断し、疎外するものとしての機能もより拡大し始めてきたように思えること。

これらの両義的な現実の間には、多層的な切断面が存在する。その切断面をまず捕らえ、観察すること。そして、それを露呈させる方法として、私は「世界に紛れ込み」、また「世界に向かい合う」という振幅運動を繰り返す。それが私のパフォーマンス。

さて、その切断面の様相とはいかなるものなのだろうか?


時間的連続性を持ちながらも、切断面の一つ一つは、整合的には繋がってはいない事の面白さ、不思議さ。例えば、自分が子供から大人と呼ばれる人間になった、と言うことを考えてみよう。子供とは大人に繋がる人格を持ち、単純に体力をつけたり、経験や知識を積み重ねるだけで成長するものだろうか? そうではあるまい。子供時代は、ひょっとして大人とは全く異なる別世界に属して入るように思える。時間的には連続していながら、連続していない。どこかでストンとワープしてしまっている。なぜワープが起こるのか? それが必要なのか?

自らの表現活動の中に、常に「外部性」を探り続けること。(例えば、それは自らの中に潜む忘れられた子供時代のイメージ、または見果てぬ先の自分、さらには人間が行き着く果ての姿の一つかもしれない培養器の中の脳のイメージのようなものにもつながる。)それはワープして越えてしまった(またはこれから越える)ことを確認することでもある。その確認作業の中での振幅運動。それが私のパフォーマンス。そのパフォーマンスは私個人の物語の中にのみ収束されてしまうのではなく、両義的な現実をダイナミックに渉猟することの中に投げ込まれるべきだ。なぜならこのダイナミズムこそパフォーマンスにとって必要欠くべかざるものであるし、「外部性」を探りながら、否応なく次のワープを誘発する原動力でもあるから。

              『世界に紛れ込むこと、向かい合うこと』(未完、未発表) より断章として抜粋  1988.1月


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