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パフォーマンスにむけて (1986)
私は自分の作品のタイトルに、もともと文化人類学の用語であるフィールドワーク(Fieldwork)という語をよく用います。この場合、私にとって“フィールド”を「環境」、“ワーク”を「そこを歩行・渉猟することを契機として生まれる問いかけの作業」と言い換えていいかも知れません。
そもそも「環境」とは、身体の外側に広がる実体としての“フィールド”のみならず、人間の視線(知覚)と視線が交わる領域としての、内的で非実体的な“フィールド”も含有している言葉だと思います。私の作品・表現行為はインスタレーションとして提示する場合、前者の外部実体としての具体的な場所(例えば水辺とか、工事現場、埋め立て地などといった)を“ワーク”するし、またパフォーマンスとして提示する場合は、後者の内的な“フィールド”(例えば情報メディアが形成するネットワークとか、人間同士の精神的な関係性のような)を“ワーク”することが多くなります。私にとってこの二つの表現は、お互いに隣接しながらも別々の性格を持つものとして意識されています。ことにパフォーマンスは当然のことですが、ものとしての展示よりダイレクトかつリアルタイムに表現の時空間が成立しています。
しかし、どうやら最近は「環境」という言葉の持つさらに根源的な意味、つまり生命体としての人間がかかえる成立基盤という問題に、最終的には、どちらの表現からも踏み込んでいくような気がしてなりません。人間とその内外の様々な“フィールド”との関係における、網の目のように感じる不可知な境界領域の作動ぶりが興味深いのです。その踏み込んでいく“ワーク”時の、身振りのあり方の相違が、他にもある様々な表現形式をそれぞれ成り立たせているのでしょう。またその時、自己を無防備に「環境」の中心にさらけ出してしまうという、ある種の実存的な認識ではなく、フィールドワークすることが一種のフィルターの役割となり、そのフィルターからなおかつ漏れ出てきてしまうシャワーフローに身を紛れ込ませていく果ての、認識や感覚を大切にしたいと思っています。(そもそも生体としての人間には、免疫機構というフィルターの役割をする本来的なシステムが内在されていますが。)今、私にとってパフォーマンスという表現における身振りが、私と観客の関わりの中で、身を紛れ込ませていくということをよりダイナミックに体現させてくれるような気がしています。
今回のパフォーマンス('86.11 アートスペースYou 東京における)を構想するに当たり、このようなことを考えていました。そんな折り、都市のシステムの論理の象徴的な場である埋め立て地の、妙にあっけらかんとしながら、いかがわしい気配をもただよわせている広大な空間を歩む時、あるいは放送終了後のTVのノイズパターンの、微細なささやきに視線をめぐらし耳をすませる時に、大勢の人が発話している言葉の集合が、ある臨界点を超えて、別種のノイズに変質してしまう瞬間の感触にも似た、不思議な感興が身体の底から沸き起こってくる自分に気がつくのです。