丸山常生の作品 −世界のイメージ   (1992)


 たとえば、都市はどのように残るのか、と問うてみる。廃虚となり、復活することなく、完全に風化してしまうといった例を除けば、都市は変貌することで残ってゆく。この変化の原因は単純ではない。自然環境による変化もあれば、人為的なそれもある。日々起っている眼に見えないような変化もあれば、ある区画を全部壊して再開発するといった大きなそれもある。アーバン・デザインや建築上の変化だけではなく、さまざまなもの、人々のライフ・スタイルや考え方、そしてなによりも人々じたいの変化に起因する変化もある。
 丸山常生の考え方が面白いのは、そのような人間と都市と近代文明の変貌を見つめつづけ記録しつづけるのに、「ゴミ」に着目している点だ。人々と街が織りなしている文明の複雑さ −考えてみれば、その複雑さをそのまま示している、いわば等身大にちかいかたちで体現しているのは、「ゴミ」だけかもしれない。その「ゴミ」を集め、サンプリングし、記録するというのが、彼の作品である。過程をパフォーマンスとして提示することもある。
 建築史、公衆衛生学、路上観察学、文化人類学 −丸山常生の作品がそのどれともちがうのは、たとえばどのような形状をとっても、彼の場合、すべては映像(イメージ)に収斂していくらしい、という点である。たとえば、埋立地からいろいろな物や物の断片を拾い集め、サンプリングして、作品とする。だが、作家も作品を見る僕たちも、ほんとうはそこに物だけを見ているのではない。人と街と文明がつくりあげているひとつの世界、その全体はつかみとることができない世界を、たとえば絵筆で描き出すように、イメージの世界として表してみたい。もっと正確にいうと、ひとつのイメージとして結実するような表現にしてみたい。作家にはそういう願望と意図があり、見る側も、サンプリングされた世界のかけらたちを、いわば脳のなかのスクリーン上に散在させることで、おぼろげながらでも、ある像を、つまり世界を、そこに結ばせようとしている。すくなくとも僕にはそんなふうにおもわれる。比喩的にいえば、丸山常生はフィールドワークで集積したゴミの断片のサンプリングによって、一種の「絵」を、想像のなかに描き出そうとしているのだ。彼の活動と作品は、ほかの何ものでもなく、たしかに「美術」なのである。

 人と街と文明がつくりあげているひとつの世界 −という語で僕がいいたいのは、この現実の世界、だけではない。眼に見える現実の世界がすべてではない。いや、眼に見える世界に、僕たちは眼に見える以外のものを感じとることができる。丸山常生もきっとそう感じている。彼は、埋立地に立って、過去と未来の時間の流れ、エネルギーの流れの発端と末端の両方が感じられる、と言う。僕も、埋立地やゴミ捨場に立った経験があるが、そこは、眼に見えるとおりのゴミの世界であると同時に、異界でもある。異界を宿した世界でもある。それは、字義どおりに、もうひとつの世界にほかならない。そこに、都市が残る。残る −過去のものが、未来に投げかけられるのである。

『MARUYAMA Tokio - Field Work2 1990-91』序文より 千葉 成夫(美術評論家) 1992.10月発行


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