私がここで用いる意味は、本来の字義通りに「対象の性質を調べるために一部を抽出する行為」を指す。音楽のサンプリング(他の音声ソースを取り込み、コントロールしながらそのソースを転用・包括した制作)や、美術のシミュレーショニズムを体現するサンプリング(他者の作品の転用)とは関係ない。
具体的に言うと、1980年から開始した「標界」シリーズの作品から、作品の素材について自分なりのルールを決めた。展示をする、あるいはテーマに定めた地域・会場周辺をフィールドワワークし、各種の廃棄物や枝や土などの自然物を拾得し、それらを素材として用いるという方法だ。
単に、コンセプトを視覚化するためのメディアとして効果的な素材(ビジュアルデザイン的に)をチョイスするというアプローチではなく、その素材の由来、それもその素材にまつわる時間性のみならず、その背景としての「環境」への繋がりを明瞭にしたかったのだ。
例えば、一本の枝を用いる場合、その枝があった環境や拾った状況も作品に取り込む。それによって移動可能なものとして自立した作品から、作品と環境、あるいは観客の行動と環境が繋がった作品を目指した。
その後、作品シリーズによっていくらか変化してきたが、基本的に、「対象の全体性に対し、サンプリングされた断片性からアプローチする」という私の制作態度に大きな変わりはない。
私にとっては、現在の社会の様々なネットワーク(各種の通信網・ゴミの回収システム・商品の流通システムに至るまで‥)の作動を仔細に観察し、そこを通過する「流れ」を断層として露呈させる、あるいは時間の断層としての表面、降り注ぐ微細な粒子のような気配、あるいは透過・反射するスクリーンとしてあらわにする…、サンプリングとはそのような一連のことも目指す、初めの手がかりとしての制作態度である。
それはまさしく私のフィールドワークの中核を成す。サンプリングされた様々な無数の断片(あるいは断層)は、時には「記憶素子」としてのゴミ、土砂、灰であったり、椅子の脚の切り口になったり、住宅情報誌の中の住居見取り図であったりする。それらは単なる外面的なもの"face"としてではなく、ヒトの知覚のやり取りが生じる現場の"interface" *としてとらえるべきものと考えている。 (2003)
⇒ 関連文献 カタログ - 編集後記 (1992)
⇒ 関連文献 境界上における歩行ということ (1982)
cf.
*‥ 1984年頃、作品タイトルにおいて、これを自己流で「接界」と名づけたことがある。