ARTIST TALK・インタビュー   (1991)

A.N.PRESS vol.3より インタビュアー:荻原康子


フィールド(環境)ワーク(歩行・採取

 まだ大学に在学していたときでしたが、幼年期から暮らしてきた家が取り壊されたんです。それまで自分を囲ってきた空間が消え去る感覚、時間の流れと記憶、といったものを、その時、強く意識しましてね。大学では絵画を専攻していたんですが、画面上の虚構の世界での問題よりも、自分が生活している空間のなかから得た実感を、表現行為への足掛かりにできないかと考えていた頃でした。それからですね。地図にマークを付けながら、「空間のグラデーション」というか、空間に微妙な変化を感じるところを求めて、いろいろな場所を歩き始めたのは。

 「フィールドワーク」、これは文化人類学の用語ですが、そう呼びはじめたのは1980年からです。自分を取り巻く環境を、歩行しながら問い直す作業とでもいうのでしょうか。自分の感受性が刺激をうけるところであれば、どんな場所でもいいのですが、そこの時間性、歴史性を加味しながら「フィールドワーク」してみたいですね。時間の流れが急速に変わりはじめようとしているところ、例えば高速道路の建設現場とか、どこかの廃校跡とか。以前はよく東京湾岸の埋め立て地を歩きましたが、都会のゴミを集積したところが、まるで自然そのままの原野のようなんです。その逆説的なおもしろさと、未来へつながる時間を感じさせるところに魅かれました。

観客の視覚、聴覚、触覚…

 実際に作品を発表する場合は、インスタレーションパフォーマンス、ドローイング、オブジェといろいろな形式になります。発表する場はとてもデリケートに選択する必要がありますが、行為そのものは誰にでもできるニュートラルなものです。ただパネルをポンと置くとか、拾ってきた枝を並べたりするだけですから。歩きながら収集した廃棄物は、その空間での出来事や痕跡を内在する“記憶物質”と言えます。それらを展示空間に持ち込み、ときには穴の空いたパネルを使って、観客の視線を導きながら、見る人の知覚を揺り動かしてみたいんですね。

 日常生活の中で、パターン化してしまったもの、慣習的になってしまったものを一度壊して、再確認する必要があると思うんです。惰性化してしまった自分の感覚を研ぎすませて、自分を取り巻く環境とのかかわりを感じてみるべきです。自分というミクロの世界と埋め立て地というマクロの世界は、どこかでつながっているものなんです。細部の問題と自分がかかえきれない壮大なものにも、目にはみえないネットワークで接触する部分があると思うんですね。そのネットワークを震わせるための装置として“記憶物質”があり、パネルで囲ったオブジェがあるのです。

 パフォーマンスはいくらか物語的にやっています。情報のネットワークも、ひとつの環境だと思うのですが、新聞やラジオを使って、つまり具体化された情報によって空間を形成することで、情報環境を疑似体験することになります。たとえばラジオを30台並べて、全部違う局にあわせる。ある臨界点に達すると情報が拾えなくなるんですね。我々はものすごい量の情報に取り巻かれていて、その中で取捨選択をしながら暮らしていることに気付くわけです。

 現在、人間の生態系にかかわることが切実な問題として取り上げられていて、「環境」をとらえなおす行為というと即、自然破壊などへの告発ととらえられがちですが、僕自身はそのような環境問題とか都市問題に対するメッセージとしてのみ、作品を見てほしくはないんですね。むしろ見る人にかなり主体的な読み取りの行為を要求する作品です。単純なメッセージに陥ることのないように、美術作品としての豊かさを持ちながら、できる限りニュートラルでありたいと思っています。


高度資本主義社会における美術“環境”

 教育の問題とも関連するのでしょうが、美術と向かい合うときに、視覚的な美意識や、装飾的な完成度とかの枠組みを取り払ったうえで読み取っていく作業が必要だと思うのです。表現の原点をダイレクトに味わってほしいんです。いま生きている現実の問題と美術というのは必ずかかわっているのだということを、教育者は教えるべきでしょうね。わかるから認める、とか、わからないから認めない、ということではなく、その途中のプロセスに於いて彼、彼女は何を考えていたのかをある程度見守ってあげることが大事だと思うんです。そうすると現代美術をみるときにも「なにこれ」じゃなくなるのではないでしょうか。

 美術というものは、精神的にも経済的にもある程度余裕がないとでてこないものですが、その意味でも、これからの東京はおもしろい実験場だと思うんです。明治以降の近代化でずっと合理主義でやってきて、合理的なものには無理があるとわかっているんだけれど、加速度がついちゃって止められない。余剰物、ムダのためのムダが出てくる。それをどう扱うかが問題です。巧妙に隠蔽するのか、合理的に排除するのか、どちらにしても無理な話ですよね。美術は余剰物から発生するものとしては、その最たるものです。

 特に僕の作品なんかは商品という視点から見ると成立しにくいですし、資本主義社会の中でコマーシャリズムと距離を保つべきものもあれば、かかわる必要があることもあります。最近、文化のまわりの問題が取り沙汰されているようですが、そのなかでもアーティストは、文化の重要性という視点に立って発言しないといけないと思うんですね。経営者側はやはり見返りを求めるものだから、そんな発言はできないと思いますし。また見返りを求めてその方策を考えるにしても、例えばアーティストを育てるとか「もの」にならないところでの文化支援をするのもよいことではないでしょうか。情報は情報として「もの」以上の効果を生むことがありますから。 〔談〕


 A.N.PRESS vol.3 アーティストネットワーク発行 - ARTIST TALK・インタヴュー記事より  1991.2月 発行


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