地表の変化に都市化を見る   (1999)

ふだん私たちの心の中では、様々な場所や出来事から誘発された断片的なイメージが、不規則にわき出たり消えたりしています。それはあたかも無数の小宇宙が泡のように生じ、そして消えていったという宇宙創成の仮説を連想させます。つまり、生まれ出て眼に見えるものとなったイメージも、流産されてしまったイメージも、元来は一つ一つが等価であり広大な宇宙になりうる卵であったというわけです。そのことは、私たちの「生」とは、かけがえのない「現在」という瞬間を起点として湧出する、「過去」「未来」の両方にまたがる「記憶と予感のイメージ作用」とともに、常にあるということに連想を向かわせます。

私はこの20余年、街の景観が次々と変わる東京に代表されるような、都市化が次々と進む場所を、私自身が「記憶素子」と呼ぶ無数の「モノ」や「コト」をサンプリングしながらフィールドワークしてきました。断片的なイメージの卵が刻々と生成滅々し、それとともに「いま自分はここにいるのだ」という生(なま)な実感を得られるのはこのような場所からです。例えば、そこから周囲の音や匂い、光と物質の様相、歩行中の筋肉の感覚、熱を帯びた鼓動のリズムなど複合的に五感が活性化され、ヒトの営みや自然の壮大な時間の流れの渦中の自分を感じることができるのです。

さて、フィールドワークしながら私の身体は空間を移動するわけですが、それとともに移り変わる街の景観そのものが、身の周りに対する視線(まなざし)のありさまを見つめ直すきっかけを与えることがあります。この作用を私は「空間のグラデーション」と呼んでいます。それは空間の文(あや)が織り成す変化の感触とでもいいましょうか。このようなかたちで触発された視線(まなざし)のありさまこそが、私の美術的想像力の源泉のひとつといえます。ありさまとはまさに具体的なことです。
例えば…
・視座(眼球のありか)の位置
・動き(視線のスピード感/リズム感/振動…)
・方向性(前後/上下/左右…)
・深さ(焦点の位置/範囲/有無…)
・スケール(フレーミングの大きさや比率…)
などの要素です。アート(作品)を取り巻く視覚的枠組みとは、これらの要素の複雑な組み合わせと、他者からの視線との組み替えによって創出される制度といえるのではないでしょうか。

以上のような観点からいうと今回の作品は、最近よく用いている地表ぎりぎりまで下げた視座の位置を採用しています。虫とかホームレスの人々と同じ視線(まなざし)とでもいいましょうか。誰でも経験することですが、非常に低い視座は世界の様相を一変させる力を持っています。(逆の宇宙船から眺めた非常な高所からの視座なども同じですが。)それは他の視線(まなざし)の要素にも変化を余儀なくさせます。そして、そのような視座で移動すると、生成滅々した都市に対するイメージも、当然、ふだんのものとは異なったものになってきます。

 

モニターを向かい合わせたビデオの映像作品は、その間に透明な特異点のような領域が想定されています。ときおり画像が消えて何も映らぬブラウン管面に片割れの画像が反射されます。その時、時間が、記憶と予感の作用によって織り成される「過去」「未来」の双方向に流れる連続体であるように、特異点に視線が双方向に流れるのが感じられます。特異点の仮想領域はそのとき、とらえどころのない「現在」そのものののメタファーとなります。

家型のオブジェは、その内側または外側を通過し取り巻く視線によって、自己というものが、時に育てられたり、時には規定されたり、解放されたりする場の象徴といえます。この家型オブジェと外界の境界に、私、またはあなたという自己が浮上します。それはあたかもスケールが変換されたもう一つの肉体であり、ホーム(家としての拠点)であり、都市でもあります。眼や皮膚はその境界に開かれ接触しているのです。…しかし、それはもはやかつてのように「主体」と呼びうる近代的な自我を保証するものではもちろんありません。

都市化(された場所に住む、あるいは歩く)というヒトの生存にとって宿命的な現象は、一方でこれらの視線そのものを、その進行とともに次々と組み替えていきます。「現在」をまるごとそっくり把握することの困難さはこのあたりにあるようです。都内各所で採取され、家型オブジェの内部に外界から反転されるようにささやかに持ち込まれた土砂はそれらのことを暗示させています。

1999.1月 トキ・アートスペース個展におけるコメント


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