「余剰」の現われとしての環境   (1991)

 例えば、現在の都市環境における象徴的な場である、埋め立て地について考えてみましょう。そこでは、私たち自身の欲望の所産である、膨大な余剰・廃棄物の処分場としての姿や、様々なプロジェクトが構想されている場としての姿が見られます。つまり私たちの生存に関する過去と未来の両方に関わる時間を、非常に現代的な形で抱えているわけです。

 そもそも「余剰」というモノ、コトと、私たちの社会の成り立ちには、深い関わりがあったように思われます。「余剰」の取り扱い方、つまりそれを生かすシステムそのものが、様々な文化を生み出し、時代によって多くの変遷を経て、人間そのものを豊かにしてきたのではないでしょうか。しかし近代以降、人類の「余剰」に対する取り扱い方は、加速度的に「過剰」さのそれへと変貌をとげてしまいました。ことに現代の高度資本主義社会においては、その「過剰」さが社会そのものを成立させている基本的なエネルギーのようにも思われます。つまり、自分たち自身の生存のために、否応なく「過剰」さを取り込まねばならなくなり、かつ自身が、環境にとって「過剰」な存在になりつつあるのです。

 埋め立て地が、現代的な意味においてとらえられるのはまさにこの点です。あのノッペリした風景は単なる都市の一風景ではなく、私たち自身の内なる環境でもある「欲望」、つまり生存そのもののエネルギーのゆくえも暗示しているのです。そしてそれは、埋め立て地だけではなく、現在の都市空間のいたるところで見られます。様々な建設現場や、あるいは廃墟化してしまったような景観の中にもあります。ことに東京は、人間が生存していく環境を今後いかに獲得していけるかの、壮大な実験場のようにも思われます。

 そのあたりの問題をどう扱うのか…? 「過剰」を単純に隠蔽・遮断しても必ずもれて出てくるでしょう。保存・管理のシステムをどんなに巧妙にしても、必ずそれを破壊するシステムも裏腹に作動していきます。なぜなら人間は環境に対して「開放系」であるからです。開かれていなければ生きていけない存在に今はなってしまっているのです。私が興味を持っているのはこの点です。外環境である風景が、内なる環境である人間自身の姿の反映であることをあらためて確認していきたいのです。果たして、この連続体としての環境のエネルギーは、どこに向かっていこうとしているのでしょうか? さらに又、「余剰」の現われの一つである美術自体の成り立ちはどうなっていくのでしょうか? 果たして美術は社会に対して真に開かれているのでしょうか?

 わたしの表現空間はこれらの「余剰」のあらわれ方を、様々な具体的な場をフィールドワークして視覚・体験化したものです。そして普段、気づかなくなってしまった、または、未だ気づかずにいる様々な「余剰」のモノやコトに、見る人自身の感受性や想像力を傾けてみてほしいのです。そこでは、日常の環境と重ね写しになりながらも、それとは別種の、時空間の体験の旅が行われていくことになるでしょう。

ルナミ画廊個展案内文より   1991年2月


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