「 現場'89 〜 '90」展に向けて   (1989)

 私達の棲むこの世界の相を、ある種の「仮の宿」的な姿として見る。つまり、様々な「もの」や「こと」、「視線」や「情報」のありかや流れの様態が、時空間の中で連続的な厚みを伴って感じられるような、そんな壮大な通過場として世界をとらえてみよう。

 私は今まで自らの表現活動を通し、その厚みの中で縦横に張りめぐらされている、人間と環境の関係としての〈ネットワークの作動ぶり〉を問題にし、自分なりに気にかけてきた。その時、熱き肉体や鋭き感性などという、口あたりのいい、今風のもの言いに頼ることなく、たとえ頼ったとしても、なおかつ覚めた眼で見続けることの重要さを、今あらためて確認してみたい。「好きなものは好き」とか「なんだかイヤ」というような感性の御旗を振り回す人々は、なぜそうなのかという議論を回避し、自分と異質なものに対し眼を閉じ、不寛容で、他者との共通項を見出せず、簡単に自己完結してしまうだろう。そうではなく、想像力をともなった覚めた「眼差し」こそが、世界の俯瞰的かつ虫瞰図的なパースペクティブの中から、美術の表現の問題として、連続的な繋がりを把握しうる力を引き出せるのだと思う。そうして初めて〈ネットワークの作動ぶり〉が、それに絡みとられた人と人を隔て疎外しあうような働きを突出させることなく、より誠実でシビアな場の中で、私達の生ける経験としてのコミュニケーションが可能になるように機能してくるのではないか。

 私は美術表現の「現場」の問題における、とかく見えにくくなっている制約や諸問題(つまりネットワークの作動そのもの)に対し、回りくどい言い方だが、以上のような立場でとらえていることを先ず表明しておきたい。
 そして、さらにもう一つ重要なことも、美術家は逆説的に気づいているべきだろう。それは覚めきった眼、つまりその理性そのものが、未知の闇に潜むデーモンにもなりうることを、自ら見い出してしまうかもしれない‥‥、そんな瞬間をも予感させてしまうもう一つ別の次元の「眼差し」も内に抱え込んでしまっている自分自身のことを‥‥。

「現場'89〜'90」展 オープニングにて観客に配布 1989.9.15



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