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発信板橋//2013 ギャップ・ダイナミクス展のカタログ巻頭文より(2013) ※studio-marとして、展のコミッショナーを務めた。新たな始まりのために
studio mar (丸山芳子・丸山常生)
私たちはどのような世界に生きているのか?
3.11は、この企画シリーズ初回目「発信 // 板橋 // 2011」の開催中に起こった。私たち夫婦(以後、丸山s)はその春から東北3県の被災したエリアを訪ね始め、福島県東部の農地やビニルハウスや道路が、植物に覆われて行くさまを見た。それは繁茂する植物としては美しいが、そのエリアが人間不在の動植物のサンクチュアリへと変貌する光景とオーバーラップし、心境は複雑だった。
私たちが生存する場は地球上の薄い表層であり、地殻変動も含めた自然界や宇宙のサイクルの中にある。たとえ人間の叡智の成果だとしても、10万年という想像もつかない未来にまで負荷をかける核のゴミを増やし続けることは、このサイクルとは相容れないと感じる。人間は、この地球環境に挑んだり組み伏せたりするのではなく、しなやかに添う生き物になるべきではないのか?
成熟した森の中、大樹が周囲の木々を巻き込みながら倒れ、森の頂きにぽっかりと出現する大きな穴のことを「ギャップ」という。TV番組がこの現象をサラリと紹介したとき、私の好奇心がざわめいた。森の頂きに残される、少し前まで存在した樹のネガのかたち。ギャップによってそれまで暗かった森の底に陽光が届き、満を持し待機していた樹木が発芽し、様々な植物群がダイナミックに移り変わりながら、やがてもとの森の平衡状態に戻っていく過程、それが「ギャップ・ダイナミクス」だ。
2011年以前の社会を森に例えるなら、3.11は、地響きを立てて樹々を倒し、巨大なギャップを空けた。その後の混乱の中で、人々の内なる意識に徐々に光が射し込み、多くの人が良心によって行動し、信条を正直に語り始めた。社会につけられた傷とも風穴とも言えるギャップに、アーティストたちがどのように働きかけ、新たな発芽の端緒を切り開いていくだろうか?
このようなテーマの今展に向けて、「なぜこのアーティストに参加を求めたか」を、過去の作品をもとにご紹介したい。全員に共通するのは、社会と切り離した自分の表現世界に閉じず、生きている世界(社会)に真摯に向き合い、感受し、咀嚼したことが作品から感じ取れること。現代アートの企画として、観客と共有できる時代感覚が大切だからだ。
大矢りか/展覧会の地で収集する木や土などの自然素材でつくる泥舟には、制作現場の環境や人々との関わりが織り込まれて行く。その地から生まれ、再びそこへ還っていく存在のはかなさと、見る者が今生きていることを実感させる。
金沢寿美/社会制度とそこに関わる人間の意識に焦点を当てるインスタレーションを作る。素材の形状の柔和さと、個の人間性に迫る物語を含む構成が、作品を豊かにしている。
任田進一/水中に浮かぶ土球がしだいに崩れて行く様子や、水中に噴出した土やミルクの形態などの写真による表現は、素材そのものを越えて、原初的な、存在の本質に迫る鋭さがある。
中津川浩章/ブルーバイオレット1色で繰り返し引かれた線の集積による絵画は、理想郷や彼岸のような、光に満ちた静寂の地を感じさせる。身障者や被災者支援としてのアート活動の経験を通して他者の痛みを知る感性が、印象深い表現に結実している。
以上の4名に加え、丸山sもアーティストとして連なる。
丸山常生/頭蓋骨モデルや地球儀、椅子などをしばしば用い、脳内と環境、存在と崩壊などの、双方を行き来する眼差しによるインスタレーションやパフォーマンスで、社会に対する際どい視点を浮き彫りにする。
丸山芳子/生物としてのヒトと、他者と共生する社会的な人間。この双方の視点から、社会、歴史などの中の人の心理を推察し、人間性や人間の本質を読み解く試みを重ね、インスタレーションや絵画によって視覚化する。
以上、6名の作品は素材も表現方法も異なるが、互いに作用しながら、緑地に囲まれたギャップに見立てた美術館の場を、ダイナミックに、あるいは、しなやかに若木で満たしていくことだろう。
(丸山芳子 美術家/本展コミッショナー)
これまで我々丸山sは、個別で、あるいは共同の"studio mar"として、いくつかの美術展の企画運営に携わってきた。とはいえ、その任に熟達している訳ではなく、我々が公の美術館で何をどこまでできるか、当初、少し戸惑ったことは告白しなければならない。そこで、テーマのコンセプトとアーティスト紹介については芳子の稿に委ね、私、常生はその準備の経緯で、折にふれ考えたことについて記すことにする。
この企画の依頼が来たのは、2011年の6月初め。前回の展覧会が3.11後の計画停電のため、会期の中断を余儀なくされたしばらく後だった。かなりのフリーハンドで任せてもらえる形をいただき、その場でOKの返事はしたものの、その後どういう方向性を打ち出すか考える時間ばかりが経過していった。
例えば、アーティストの人選はもちろんのこと、アーティスト主導の企画としてどこまで斬新で面白いことが出来るか? ある程度板橋に関連したことを絡ませる差配をどうするか? そして何より、日本がまともに存続していくのかどうかさえ定かでなく、2年以上先の社会状況が皆目見当がつかなかったこと。未来を抵当に入れ目先の甘い蜜を吸い、それに悪気無く加担してしまっている欺瞞性を突きつけられ、自らもその当事者であることを痛感し、気分は内向きになりがちだった。被災者支援のような明解な目的を持った活動のようには行くまい。果たしてどんな状況下で展覧会を迎えることになるのだろうか? コミッショナーの立場として、なかなか方向性は定まらなかった。
ともあれ、我々のそれまでのスタンスとして、同時代性を伴った社会的・批評的な視点を持つべきことは自ずと明白だった。結果的に、アーティストとしての直感で決断していくことになった。3.11と無関係なテーマにはせず、今回のタイトルに象徴されるテーマに収斂していったのは、ある意味必然的な流れではあった。
ここ10年くらいで、地域社会におけるプロジェクト型、ワークショップなどを中心とした参加型の企画が、ずいぶん前景化した。かくいう我々も、そのようなプロジェクトを立ち上げた(ている)経験がある。それらは現代アートの日常化や、親しみやすさを得るのに一定の貢献してきたことは確かだ。ただ一方で、そのような「つながり」だけが構築されればいい訳ではないと思えるようなものもある。また、アートが結局のところ大衆(時には権威的制度も含む)や市場社会と連動していかねば生き延びていけないという、現実追従的な態度がアーティスト自身に蔓延してきている傾向にも、少し違和感を抱く。
今回の展覧会の方法論として、様々な形も考えられたが、美術館内外を「ギャップ」の象徴とする構想にチャレンジしつつ(これはこの美術館では初めての試み)、基本的には作品主体のオーソドックスな形での直球勝負を目指すことにした。
3.11以降、各地でアートの役割を問うような様々な企画や活動が、活発に行われてきた。今や、その手のものはもう沢山、と辟易する気分すら抱く人がいるという。しかし、3.11だけに焦点を当てるのは我々の本意ではない。そこで生じたギャップがきっかけであるものの、それまでの制作や活動の意義、社会のあり方に再考を迫られたアーティストたちが、さらに自己の内面に感性の錨を深く降ろし、未来の時間軸に向けたメッセージをどう作品に結実させるかを見ていただきたい。
コミッショナーの立場としての私は、それを「芸術がもたらす生命力」という言葉でとらえている。今の時代、このような言い回しは、やや尊大な印象を与えるかもしれないが、アーティスト達がその想像力を駆使し、エネルギーの充溢を目指す姿を表すのに、このくらいの大きな構えが相応しいと思うのだ。
(丸山常生 美術家・パフォーマンスアーティスト/本展コミッショナー)
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