パフォーマンスを見ていただいた方々へ   (2001)

 初めての土地で、たった半日しかない滞在中に何ができるか? これが、今回、私に課せられた一つの難題だった。予備情報は、多ければ多いにこしたことはないし、少なければ少ないで良いこともある。海外の発表でもこういう事はしばしば体験したが、様子がある程度わかってしまう国内のほうが、かえって難しい。多からず少なからずの中途半端な予備情報やリサーチは、時としてプランを構想する上で足を引っ張ることがある。こういう場合、不確実な要素を極力無視し、自分の方法論や素材を固定し、完結したパッケージとして演目を提示するのが常套手段だ。そのほうが作品の水準を維持できるし、楽だから。

 しかし、パフォーマンス・アートとは、それが行われる瞬間瞬間において、常にあらゆる方向に向かって可変的に開かれているものだ。その場・その時において、アーティストの身体と観客の眼差しが不意に交錯した時に立ち現れる「何か」、予測不可能なものに出くわしてしまった「戸惑い」と「驚き」、それらはパフォーマンス・アートの醍醐味を形づくる基盤であり、時に不興を買ったとしても、それに欠かせないエネルギーの発露でもある。
 今回、たとえ皆さんのほとんどが私のパフォーマンスを初めて見る観客だったとしても、自ら、その開かれている(べき)状態を閉じ、どこでやっても同じようなものを発表する気にはなれなかった。そこで、様々な可能性を考えつつ、素材を多めに用意し、現地に入ってからプランを素早く再編成し、なおかつ、始めるギリギリまで保留状態に身を置くことにした。私のようなタイプのパフォーマンスは、即興的なダンスや舞踏などとは異なるから、こういうやり方はけっこう勇気がいる。そして、パフォーマンスを始めると同時に、保留状態の余白の中にすっと身を投げ出していく。一見、無責任でいいかげんなように思われるかもしれないが、けっしてそうではない。これには、一瞬一瞬に小さな決断を積み重ねつつ、単なるアドリブにならないように、それらをまとめあげてゆく、というアーティストとしての力量が試される。まとめあげるというと、いかにも前もってプランニングされ全体を大局的に組み立てていくように捕らえられるかもしれないが、そうではない。不連続な行為や出来事の断片に私が直感的にバイアスをかけ、放置しながら構成していくといった感じだろうか。

 
2001.(c) Maruyama Tokio

 今回の私のパフォーマンスが、皆さんにどう受け止められたかは残念ながら良くわからない。しかし、拍手喝采を浴びたり、何らかのメッセージとして解釈してもらえた、ということがたとえあったとしても、あるいはその逆だったとしても、それは私にとって本質的なことではない。アートにおけるコミュニケーションにおいて、100%の相互理解とか無理解ということはありえない。何かフに落ちなかったり、落ちたりしながら、感性のレベルで困惑しながら生ずるささやかな相互作用の内に、案外本質は隠されているのではないだろうか。私の行為のわずかな断片でも皆さんの記憶の片隅に宿り、ある時「ああ、あれはこんなことだったのかな?」とふっと思い出し、それが密やかに根を張る…。そんなことが起こってくれれば良いと思っている。今回来日したアーティスト達の作品(パフォーマンス)もこのような性質のものだったといえる。大向こう受けする感動を呼び起こしたり、万人の受け止め方が一致するようなものはかえっていかがわしい。
 予測不可能なものと対峙した時、何らかの恐れとか不安を抱くのは人間の本能だ。例えば、テロはそれにつけ込む卑劣な犯罪だが、パフォーマンス・アートは、基本的にそのような予測不可能なものとの出合いから呼び起こされた感情を、戸惑いや驚きへと変化させ、さらに肯定的に生きる喜びや勇気へと結びつけていくものだ。全て準備されたパック旅行は結局面白くないし、本やテレビでも味わえる。旅の真の醍醐味は、現場で出くわしてしまった戸惑いや不安を否応なく受け入れ、それを楽しみへと転化してゆくプロセスにある。そう、パフォーマンス・アートとは、見知らぬ土地を放浪しながら旅するようなものなのだ。大袈裟に言えば、そこには、旅を含む人生の本質的なものに関わる何らかエッセンスを、その一瞬の内へと凝縮させた滋味深いエキスが含まれている。

 初めに、たった半日と書いたが、ものは考えようである。時間に対する感覚は常に相対的なものだ。その「たった」は、一方で充分な長さだったと捕らえることもできる。長い滞在やコミュニケーションの中から見えてくるものもあれば、逆に短い時間の中でしか見えてこないこともある。そういう意味では、最初に書いた私の難題はさして難題でもなかったということになる。今回の半日という時間は、私にとって、パフォーマンスに内在するエネルギーも含めて考えた時に、旅の醍醐味として味わうに充分な時間だったと言えるかも知れない。
 最後に、ここ更埴に播かれたパフォーマンス・アートという目新しい表現分野の種が、今後も地道に成長していくことを期待しつつ、この機会を与えてくれた関係者の方々に感謝をいたします。


更埴市におけるパフォーマンス公演より) 丸山 常生 2001.10月


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